※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
まず「哲学」について。哲学は他の学問のように、ひとつの問いに対してひとつの正しい答えがあるわけではありません。客観的に正しい答えに自分の考えをすり合わせるのではなく、自分が納得できる答えに出会うことを求める―これが哲学の醍醐味です。ですから答えは人の数だけあるとも言えるし、自分のものだとしても明日には今日とはまた異なる答えに出会うこともあるとも言えます。
今日のテーマは、「学び」の意味についてです。「どうして勉強するの」という子どもの素朴な問いに対して、常識的には「大人になって困らないため」という答えが用意されています。親であり大人である私たちも、この答えを当たり前のように踏襲し、その上で「どうやって子どもを学ばせるか」ということを熱心に追及しています。
「大人になって困らない」というのは、まあ確かにそうかもしれません。だけどそれだけじゃないかもしれないし、全く別の答えが見つかるかもしれない。その気持ちを胸に、先達たちの言葉に耳を傾けてみましょう。
2. 自分の経験できないことを学ぶ―他者理解のための学び
三砂ちづる『身体知 身体が教えてくれること』より(p.66 バジリコ出版)
私が「いいお産、いいお産」と言っていると、「そういう経験をできなかった人はどうするのか」とよく言われるのです。できない人はしょうがないですよ。人生は何でもいちばんいい、と思うとおりにはならない。しょうがないからそこをまわりが受けとめてまわりが支えていけばいいのです。できない人がいるからといって、本来のお産はこういう経験だということを言わなくていいということではない。お産はこういう経験だということを、お母さんも赤ちゃんも男の人もみんなわかっていい。いまは医療としての出産しかみていないから、ほんとうの生まれる意味がわからなくなってきている。本当のお産がこんなにすばらしいと言うと、「できない人やできなかった人がかわいそうだからやめてくれ」と反応するのは、方向が逆だと思いますね。(略)
人間は経験したからといって、すべてわかるものではない。言葉から想像して他人の経験を共有するために「勉強」というものをしているのでしょう。自分が経験していないからわからない、ということではないと思う。経験がすべて、ではないですよ。
3.私はどうしてこの「私」なのか―自己理解のための学び
内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より(pp.104-105 角川文庫)
空間的に自分が「どこにいるか」ということは比較的簡単に分かります。しかし、時間の流れの中のどこに自分はいるのか、ということは、「勉強」しないと分かりません。(略)
ぼくはよく「マッピング」ということばを使います。
「マッピング」というのは「地図上のどの点に自分がいるかを特定すること」という意味です。地図の中のどこに自分がいるかということは、「今・ここ・私」を中心にしている限り、絶対に分かりません。当然ですけど。
だって、そうでしょ。「地図を見る」というのは、とりあえず、「今・ここ・自分」をかっこに入れて、そこから想像的に遊離して、上空に仮設した「鳥の眼」から見下ろす、ということなんですから。
想像的に視点を自分から離脱させてみる。視座をどんどん遠方にずらせば、遠方から「自分を含んだ風景」を見ることができる。自分自身を含んだ大きな風景を、都市を、大陸を、地球を、想像できる。高度を上げられる人ほど自分の空間的な位置取りについて、より多くの情報を手に入れることができます。
これが空間的なマッピングです。時間の流れの中のマッピングも原理的には同じことです。
自分がどんなふうに形成されてきたのかを見る、ということです。
自分の家庭や会社や共同体。その網目のどこに自分がいて、どのような機能を果たしているのか。どういう要素の複合効果として自分は出現してきたのか。条件がどういうふうに変われば自分は「消え去る」のか。そういうことを考えるのが「時間的マッピング」です。
自分の「前史」を見通すということですね。
4.自分の存在の意味を見出すための学び
大江健三郎『「自分の木」の下で』より(pp.15-16 朝日文庫)
私は自分でもおかしく感じるほど、ゆっくりした小さな声を出してたずねました。
―お母さん、僕は死ぬのだろうか?
―私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。
―お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできないといわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。
母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。
―もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
―……けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
―いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。
私はなんだかよくわからないと思ってはいました。それでも本当に静かな心になって眠ることができました。そして翌朝から回復していったのです。とてもゆっくりとでしたが。冬の初めには、自分から進んで学校に行くことにもなりました。
教室で勉強しながら、また運動場で野球をしながら―それが戦争が終わってから盛んになったスポーツでした―、私はいつのまにかボンヤリして、ひとり考えていることがありました。いまここにいる自分は、あの熱を出して苦しんでいた子供が死んだ後、お母さんにもう一度産んでもらった、新しい子供じゃないだろうか?あの死んだ子供が見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、以前からの記憶のように感じているのじゃないだろうか?そして僕は、その死んだ子供が使っていた言葉を受けついで、このように考えたり、話したりしているのじゃないだろうか?
この教室や運動場にいる子供たちは、みんな、大人になることができないで死んだ子供たちの、見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、その子供たちのかわりに生きているのじゃないだろうか?その証拠に、僕たちは、みんな同じ言葉を受けついで話している。
そして僕らはみんな、その言葉をしっかり自分のものにするために、学校へ来ているのじゃないか?国語だけじゃなく、理科も算数も、体操ですらも、死んだ子供らの言葉を受けつぐために必要なのだと思う!ひとりで森のなかに入り、植物図鑑と目の前の樹木を照らしあわせているだけでは、死んだ子供のかわりに、その子供と同じ、新しい子供になることはできない。だから、僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ……
【このテーマをどう読み解くのか?】
「学び」というと学校の勉強とイメージする人は多いと思います。でも人生において学ぶとは…?これは深いテーマですが子育て中のお母さんお父さんがもう一度考えるテーマではないかと思います。
安定的な大企業のサラリーマンや公務員が今の若者たちにとって一番人気の職種ですが、10年後には7割の仕事がなくなるともいわれています。だから広義の発想で学びについて考えるというのも大事なのだと思います。
子ども時代に何を学ぶべきなのか?学ぶというのは子ども時代だけのものなのか?
創造力をはたらかせ、楽しく人生を生きるコツを学びましょう(^^)/