【参加者募集】6/21みきゃんっ子&哲学カフェ

みきゃんっ子では随時申込受付けています!

毎週火曜日に実施しているみきゃんっ子では毎月第2火曜日に哲学カフェを行っていますが、6月14日は雨で中止となったので、6月は6月21日(火)に実施することにしました。

今回のテーマは「自由に」生きる。

不自由よりも「自由」。私たちは束縛されている状態よりも、何からも拘束されていない状態が好ましいと感じます。だからこそ、もう三年目になるコロナ禍において、さまざまな制約がある中で生活せざるをえないことを不自由に、そして場合によっては不快に感じているのでしょう。自由に外出したいし、マスクも着用したくない、好きな場所で好きな人たちと存分に時間を共有したい―。そう、「自由に」生きたい。けれども、何からも束縛されることのない究極の自由なんて、本当にありうるのでしょうか。仮にそのような状況がありえたとして、私たちはそこで心の底から「自由に」過ごすことができるのでしょうか。

 「かごの中の鳥」とは身動きの取れない不自由な様子を表すメタファーではあるけれど、別様にも解釈できます。少なくともこのかごの中は誰からも攻撃されることなく、シェルターのごとく自分の空間を守ることができる、と。状況を逆から捉えるならば、私たちはうちなる空間さえ守ることができたなら(そこで自由に思考することができるなら)、どんなに不自由な状況にも耐えることができるということなのかもしれません。

 今回は「自由」をキーワードとして、「多くの選択肢が与えられている自由」は本当に自由なのかについて(2)、「逃げることができる自由」「飛び込むことができる自由」について(3)、そもそも「自由である」と感じることができるとはどういう状態なのかについて(4)考えていきたいと思います。

~申込方法♪~

申込は愛媛県総合運動公園の振興課に直接お電話していただくのがベストかと思います。

毎日9:00~17:00までは電話がつながりますので直接 089-963-2216までお電話していただいて「みきゃんっ子の_月_日分に申込したいです。」と連絡いただくと申込できます。

前日や土日も受付けていますので興味のある方の参加お待ちしております(^^)/

森のようちえんみきゃんっ子の2週目の火曜日に毎月「哲学カフェ」やってます(^^♪

毎週火曜日、愛媛県総合運動公園のキャンプ場で「森のようちえんみきゃんっ子」を開催させてもらっています。

毎回、季節ごとに変化する森を散策し、お昼は薪から火をおこしご飯を作りみんなでいただいています。

寒い日は寒いなりに子どもは風を楽しみ、落ち葉を楽しみます。子どもの感性が開花する幼少期に毎週森に出かけていくことは子どもの成長にとても有効であると考えています。

そんな森のようちえんの第2週目に松山短期大学非常勤講師の山本希さんに来ていただいて「哲学カフェ」を開催しています。

12月14日(火)のテーマは「集うことの意義」です。コロナ禍の影響で子どもたちは室内で過ごすことが増え、私たち大人もzoom会議など、リアルで会うということが減り、人と人が出会うコミュニケーションの場はどんどん少なくなっているように思います。

そんな時代だからこそ考えるテーマではないかと思います。

答えは一人ひとりがゆっくりと考える中から多種多様に生まれます。人に左右されるのではなく、自分で考えることがまず大事ではないかと思っています。

12月14日はまだ定員に達していませんので希望する方は申込お待ちしております。申込は愛媛県総合運動公園振興課 ℡089-963-2216 又はinfo@eco-spo.comまでお願いします。

「集うこと」の意義・・・2021.12.14哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

コロナも落ち着きをみせ、自粛生活から解放されつつあります。コロナ禍においては、「リモート」だとか「オンライン」だとかが推奨され、私たちは他者と物理的な距離を保つことが推奨されてきました。他者と物理的な距離をとることによって、対人的なストレスから解消された人もいるでしょう。あるいは、他者と切り離され生み出された余白を自分自身と向き合う時間にすることで、今まで敢えて目を向けることもなかった事柄に対峙する機会となった人もいるでしょう。その状況がまた元に戻る方向へと舵が切られているようです。もちろん基本的には喜ばしい。だけども億劫でもある…。

 改めてここで、他者と共に場に集うことの意義について考えてみませんか。そうすることで、他者と共にいることの心地よさ、あるいは違和感、一人でいることの快や不安について思いを馳せるきっかけになるのではないかと思います。

2.村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』

pp.10-11 青土社

自分の生活も他の人との出会いも、さまざまに異なるリズムが折り重なったものであろう。たとえば人との付き合いのなかで、相性の良し悪しや、波長が合うことや行き違いはつねにあるが、それはリズムが合う合わないということでもある。多くの日本語の慣用句もリズムと関わり、たとえば「馬が合う」「拍子抜け」といったものが思い浮かぶ。「息が合う」「一息入れる」「息が詰まる」というように、「息」にまつわる表現は、対人関係や生活のリズムと関わることが多い。リズムを論じた中井正一(1900-1952)は、「間が合う、間がはずれる、間が抜ける、間がのびる」ことに注目した(中井1981/1995 108)。あるいは自分のリズムと、社会から要請されるテンポが合わなくて、日常がうまく過ごせないということもある。気ばかり焦るが体が一向に動かないというときも、自分のなかでリズムがずれている。つまり他の人とのあいだでも自分のなかでも、リズムがぎくしゃくすることがある。言い換えると、リズムは単数ではない。リズムは複数の線が絡み合ったポリリズムとして生じる。

 たとえば、最近私はある小学校の授業を見学する機会があった。生活困難な家庭や、外国籍の子供が多数所属する学校で、普通級のなかに特別支援の配慮を必要とする子どもも数人いるクラスである(つまりクラスの背景にある状況もまたポリリズムである)。「いちばん大変なクラス」と紹介されて初めて見学した時には大きな混乱のなかにあった。そもそも校舎の玄関をくぐったところで「授業中なのに廊下で競走をしている子がいるな」と思って二人の生徒を見ていたら、実はそのクラスの生徒だったのだ。国語の授業のはずだったが、三人の子どもが教室から出たり入ったり、あるいは床に寝ころんでいた。他の子どもも騒々しく、担任からの質問に答える声が雑談でかき消される状態だった。このようなときにはそれぞれの子どもがもつリズムがばらばらであり、クラス全体としてはカオスあるいは文字通りのノイズとなる。

 ところが一カ月後に訪れてみると、前回立ち歩いていた子どもたちも机に向かい、一生懸命作業をしていた(図工の時間だった)。先日廊下で走っていた二人も不器用なのでイライラしながらであったがそれでもクラスの流れと無関係の行動を取るわけではなかった。校長先生に理由をたずねてみると、一カ月のあいだ、担任と副担任が丁寧にその子たちにつきそって語りを聴き取ってきたことが大きいようだった。図工のクラスは比較的自由で、全員が思い思いに工作を進めながらときどき周りの友だちと集まって話しているが、前回とは異なり、状況が把握できないカオスではない。二、三人が集まって自由な会話がメンバーを変えつつ行われても、クラス全体が一つのメロディーを変奏しながら奏でているように、工作をするというテーマは保たれていた。授業が終わるころには、多くの子どもの課題が完成していた。さまざまなリズムが変化しながらも統一されたクラスの流れを作る。ばらばらになることもあれば、調和することもある運動がポリリズムである。

3.寮美千子『あふれでたのはやさしさだった』

pp.211-213 西日本出版社

人は人の輪の中で育つ

「社会涵養プログラム」の授業は高い効果をあげた。なぜだろうか。

(略)

 既成概念や知識といった世間の物差しを当てて評価するのではなく、そこにある詩を、あるがままに受け取ることこそが大事なことなのだろう。教室の仲間たちは、すなおでまっすぐな感想を述べてくれた。最初からそれができていた。なぜそうだったのか。

 彼らには、気の利いたことをいう知識も機知もなかったのかもしれない。相手を計るべき持ち合わせの定規がなかったのかしれない。でも、だからこそGくんは、深く癒されたのだろう。裸の心でつながりあうことのできる教室だったから。

(略)

 もう一つ思いあたったのは一対一ではなかったということ。教誨師と受刑者は、常に一対一だ。その僧侶は、実に思いやり深い方で、誰に対しても腰が低く、常に受刑者と同じ目線で話そうと努力なさっていらした。そんなやさしいお坊さんでさえ、受刑者から見れば、どうしても自分とはかけ離れた存在に見えてしまう。その距離感があってこそできる教育がある。宗教は魂を深く救ってくれる。教室とは役割が違うのだと思った。

 社会性涵養の教室にいたのは、自分たちと同じ境遇の仲間たちだった。だから、安心して自己開示し自己表現できた。表現すること自体が、一つの癒しになる。そこには、受けとめてくれる仲間がいる。それが、さらに深い癒しをもたらしたに違いない。

 グループだからこそ、一対一とは違う大きなうねりが生まれ、互いに交感しあい、連鎖反応を起こし、次から次に心の扉を開けたのだろう。すると、心の内に埋もれていたやさしさが、堰を切って流れだす。そのやさしさが、互いの心をまた癒していく。「人は人の輪のなかで育つ」ということ、「場の力・座の力」を実感した。グループ・ワークならではのダイナミズムだ。

 

4.堤未果『デジタル・ファシズム』

pp.249-252 NHK出版新書

教科書のない学校

 タブレットがないと、自分の頭で考えなければならない、という小学生の女の子の言葉を聞いた時、不思議な気持ちになった。

 私の母校である和光小学校には、タブレットどころか教科書自体がないからだ。

 知識を入れるためでなく、考えるための教材を先生が自分で探してきて、それをプリントしたものが配られる。毎回授業のたびに数ページ配られる紙を自分で二つに折って、授業の最後にファイルに綴じてゆくので、一学期が終わる頃には一冊の教科書ができあがる。授業中に思いついたことの走り書きや計算式、その時流行っていたアニメのイラストが描いてあり、あちこちに折り目がついた、世界に一つしかない、自分だけの教科書だ。

 プリントは毎回、その授業で進む分しか配られないため、当日にならないと内容がわからない。国語の授業で使われる物語は、その日のページ分だけで先の展開が読めないので、皆で登場人物の気もちや動機を一生懸命考えながら授業が進んでいく。結末を知らない分、創造力がどこまでも広がり、毎回どんな意見が飛び出すか、議論がどこに向かうか予測できない楽しさがあった。

 この学校の授業には、二つの特徴がある。

 ひとつは「すぐに答えを教えてくれないこと」。

 例えば、ある日理科の授業で先生がこんな問いを出した。

 「パイナップルは、どこになっているでしょう?」

 私はその時率先して手をあげ、自信満々で「木になっています!」と発言した。他の生徒からも「土から生えてる」「冷蔵庫」「わからない」など多数の声が上がる。先生は正解を言う代わりに、私たちにもう一度こう問いかける。

 「未果はどうして木だと思うの?」「土に生えていると思った人はなぜ?」

 答えの代わりに問いを投げられた私たちは、小さな頭をフル回転させてそれぞれの理由を皆に説明し、自分とは違う意見にも耳を傾け、丸々一時間話し合った。

 その間先生は口を挟まず、私たちが活発に議論する姿を目を細めて見ていた。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、やっと先生がくれた答えを聞いた私は顔が真っ赤になったけれど、皆と話したあの時間が、とても楽しかったのを覚えている。

 もう一つの特徴は、先生が生徒の答えに〇×をつけないこと。

 正しいのか正しくないかよりも、どうやってその答えに辿り着いたかの方に関心を持ってくれるのだ。間違えても裁かれないので、私たちは思ったことを自由に口に出し、ありのままの自分でいられたように思う。その分話が終わらずに時間切れになってしまうことが多かったが、先生は気にする様子もなく、一緒に熱くなっていた。

 中でも一番重宝されるのが、途中でついていけなくなってしまい、答えが出せなかった生徒だった。彼らは時に「はてなさん」などと妙な名前で呼ばれ、それぞれどこでわからなくなったのかを言わされる。そこからクラスの皆で一緒に考え、疑問を口に出しながら、ゆっくりと一緒に答えを見つけてゆく。どんな意見を口にしても、先生は一旦そのまま受け入れてくれる。だが、面倒くさいからと考えるのを放棄して「〇〇ちゃんと同じです」などと発言した時だけ、先生は顔をしかめてこう言うのだ。

 「同じ、なんていう意見はないよ。未果はどう思うの?」

 授業の最中も、先生は黒板を使わずに、壁に張った大きな模造紙に生徒から出た意見をどんどんその場で書いたり、文字でなく図にしてみたり、時にはプリントを使わずに全部口頭でやってみたり、いきなり演劇から入ったり、その時その時の空気に合わせたやり方をする。

 そんなふうに先生が創意工夫して、毎回一期一会の授業を作るあの教室では、違う考えを持つクラスメイトたちの存在を同じ空間の中で受け入れることや、答えの出ないことを考える道のりに、何よりも価値が置かれていた。

 科学者と企業家たちは今、人工知能を駆使して生徒たちの間違いを見つけ出し、思考の土台を作り、激励までしてくれる個別学習プログラムを開発中だ。

 だが教師と生徒の間の絆や、教室で生まれる一体感は、果たしてそれらに置き換えられるのだろうか?

5.伊藤智樹『開かれた身体との対話 ALSと自己物語の社会学』

p.89 晃洋書房

物語と身体

 物語は言葉によって構成されますが、コミュニケーションには身振りや表情を表す私たちの「身体」も関わっています。

 たとえば病いで身体を想うように動かせなくなった人がセルフヘルプ・グループの集会に参加したとします。その人は、コミュニケーション・エイドを介して会話に参加することはできますが、一般的にそのテンポは口頭での会話よりも遅く、健常な頃と同じスピードで質疑応答をするわけにはいきません。また、人によっては、何もしゃべらずに終わることもあります。では、その人は、とりたてて意味のある言葉をその場では発しなかった、というべきでしょうか。否、その人は多くのことを語っています。その場に彼・彼女の身体があるというただそれだけの事実によって、病が進むと閉じこもって社会参加ができなくなるというイメージないし思い込みに対して端的に反証が示されています。そこでは彼・彼女の身体も、清水忠彦さんと同様に、開かれた身体といえます。彼・彼女は身体を通して他者とコミュニケートし、見る人は、その身体に何らかの物語の要素を読み込むと考えられます。

 このように考えると、物語を語る身体に着目するのが有意義なケースがある、ということがわかります。伊藤(2012b「病いの物語と身体―A・W・フランク『コミュニカティブな身体』を導きにして」『ソシオロジ』173:121-136)では、パーキンソン病等をもつ人によるサークル「リハビリジム」の営みが記述されています。そこには、多弁な人もいれば無口な人もいますが、いずれも共に「リハビリ」を行いながら病いの中を生きていこうとしています。その際、小さな改善劇を一緒に目撃したり、あるいは思いのままにならぬ身体を笑い飛ばしたりする場面が現れます。そこでは、すべてが言葉で語られるのではなく、少し大げさにしたり何度も繰り返したりする身体の動きによってやりとりが成り立っています。このように、身体は物語行為の構成要素として人々の営みの中に埋め込まれているのです。

「私らしさ」ってどういうもの?・・・2021.11.9哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「個性的な人間であること」、「ナンバーワン」だったり「オンリーワン」だったりすること。私たちは、日常生活の至るところで(あるいは教育の現場で掲げられている目標として)「自分らしくあること」の獲得に心を砕いています。生まれてきてくれるだけで有り難かった我が子も、元気で育ってくれるだけでよかったはずなのに、成長するにしたがって欲が生じて「他の人とは異なる」この子にしかない「個性」を獲得させたいと思ってしまう…。もちろんそれは子を思うが故の多くの人の抱える親心でしょう。決して否定されるべきものではありません。だけれども、そもそも、どんな人間だってみんな違うのは当たり前です。誰だっておのずから個性的です。にもかからわらず、私たちの求める「個性」とは、単に他者との特異性が意味されているのではなく、「他の人と違って優れていること」が目指されているのではないでしょうか。

 今回は「私らしさ」について、自分に備わる個別性、特異性にスポットを当てて考えてみたいと思います。まず、ポジティブな意味での「私らしさ」について(②)。続いて、ネガティブな意味での「私らしさ」について(③)。最後に、「私らしさ」とは、その能力や特質に潜んでいるのではなくて、存在そのもののうちに根拠をもつということについて(④)。

 2.『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』

ライザ・マンディ みすず書房 pp.64-65

そのころすでに、教師が暗号読解への適性が高いとわかりつつあった。その理由は、高度な教育を受けたこと以外にもたくさんあった。(略)暗号読解には、読み書きの能力と計算能力、創造力、労を惜しまない細かな気配り、優れた記憶力、くじけずに推量を重ねる力が求められた。単調な骨の折れる作業に耐える力と、尽きることのないエネルギーと楽観的な心構えが必要だった。(略)

 趣味、それも芸術的な趣味をもっていれば好ましいこともわかってきた。「外の世界に向いた創造的な興味関心や趣味をもっていた者は、映画などの娯楽が好きな者と比べて、おおむねとても良い結果を出している」と文書の最後に書かれている。

 気質も重要だった。ここでもまた、学校教師の長所が物を言った。もっとも優れた暗号解読者は、「成熟し頼りになり」、「明晰で怜悧な頭脳」をもちながら、「機敏で順応性が高く、すぐに適応できて、監督されることを受け入れ」、「ワシントンの不便な生活にがまんできる若い人物」であると判明しつつあった。この要件は、ドット・ブレーデンをはじめとして、多くの学校教師にぴったりあてはまった。

3-1.村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』

青土社 pp.104-105

こうして「犯人は誰か」という謎は、当事者にとっては気づかれもしない死角であるということが明らかになる。自分の身体に縛られている私たち人間は、傍観者であろうが当事者であろうが状況の核心を見通すことができない。それだけでなく、状況からこぼれ落ちている死角があるということにすら、気づくのが難しいのだ。身体をもって存在するという条件のなかに、死角が組み込まれているのである。状況のなかの見えない部分もまた、身体の延長線上にあるのだ。死角は世界において身体から見えない部分として生まれるが、同時に身体との相関においてのみ生まれる以上、〈身体の余白〉の一部なのである。人間が身体をもつ限りにおいて、視点が生じ、死角が生じる。そしてこの死角こそが、〈その人だけが知りえないもの〉という仕方でその人の特異性を作るとすると、この特異性は身体の余白において生じるものであることになる。身体の余白は身体そのものではなく、身体をもつがゆえに見えなくなる死角であり、身体の絶対的な外部だ。〈身体の余白〉は身に見えるモノや人でもなければ、意識されるものでもなく、身体でもない。(略)〈その人だけが知りえないもの〉という〈身体の余白〉はその人の個別性を指し示す。人は自分自身でないものによって個体化するのだ。

3-2.『みんな水の中「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』

横道誠 医学書院 pp.42-43

私もあなたも、脳の多様性を生きている。脳の多様性とは、英語でいえばニューロダイバーシティ、神経多様性とも訳されるものだ。私は神経発達症群の当事者だ。それは日本での一般的な言い方をすれば発達障害者ということになる。あなたは私と同じくそうかもしれないし、そうではない「定型発達者」かもしれない。いずれにしても、脳の多様性を体現している。

 発達障害者という言い方は、本書で応援する社会モデルの考え方からすれば、不適切な表現というほかない。社会モデルは医学モデルと対をなす用語で、医学モデルが障害の発生場所を個人に見るのに対して、社会モデルはそれを環境に見る。たとえば、視覚障害者が社会からの充分な支援を受け、生きていく上でなんの困難もないと感じる環境を得られれば、その人は「眼が見えないだけの健常者」ということになる。楽器を弾けない人がいるように、特定の食べ物を食べられない人がいるように、そもそも人間が自力で空を飛べなくても、それだけでは決して致命的ではないように、眼が見えないだけなのだ。

 この考え方に立つならば、発達障害者も、環境との不一致を起こしているからこそ「障害者」になっているだけだと言える。村上直人は定型発達者と発達障害者の関係をWindowsとMacの違いにたとえ、前者にできて後者にできないことがあっても、それは欠如や障害ではないと述べている。まったく同感だ。

 

4.存在の二つの意味-「本質存在」と「現実存在」

存在とは「ある(在る)」で言い表されている事柄です。この「ある」ですが、二つの様態に分かつことができます。

 

・「本質存在」 「事物が…である」こと

・「現実存在」 「事物がある」こと

 

例えば、ペットボトルとは「ポリエチレンテレフタラート製の容器である」ということは、ペットボトルがペットボトルであるために必ず備えていなければならない性質です。これが伝統的にヨーロッパ哲学では「本質(存在)」と呼ばれています。それに対して、その本質が定まったとしても、実際に現実に存在する(「現実存在」)か否かについては別次元の問題だということができます。例えば「かぐや姫」や「鬼」などの想像上の人物や架空の生き物について、私たちはその本質(それがなに「である」か)は理解しているけれども、それらは現実に存在(「がある」)しているとは言えません。

(『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』 貫成人pp.13-15を山本により要約)             

 

本質存在とは「私は…である」という在り方のことであり、その「…」で表されている私の内実は、無限とは言えないとしても幾通りもの仕方で語ることができ、またそれを失ったとしても別のあり方をすることが可能です。つまりそれは、他者と取り替え可能な(私である必然性はない)レベルでの存在の仕方だと言うことができるでしょう。それに対して、「私が在る」という現実存在は、それを失ってしまったならば私であることがなくなるような、まさに唯一無二の、他者と取り替え不可能な在り方なのです。

「コロナ禍の今、見えるもの、考えること」…2021.10.12哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 「コロナ禍」という言葉が私たちの日常に入り込み、もう二度目の秋を迎えています。外出する際にマスクは、スマホ、財布、鍵と並ぶ必需品となりました。コロナ禍において日常は刷新され、私たちは「ニューノーマル」という「新たな常識」を迎え入れないといけない、ということになっているようです。マスクや消毒や人との距離について常に意識しなければならなくなり、たかだか三年前のマスクなしの日常風景にすでに違和感を抱くほどです。しかしながら、このような時だからこそ(あえて言うならば「異常時」だからこそ)見えてくる事柄、そしてそこから考えるに値するような事柄に出会うこともあるのではないでしょうか。

 今日は「コロナ禍」をキーワードに拾ってきた文章をもとに、みなさんと一緒におしゃべりに興じることができたらいいなと思っています。

 以下、引用です。テーマはもちろん「コロナ禍」ですが、敢えて副題を示すとしたら次のようになります。

 

2→「コロナ禍」で見えてきたもの

3→極限状態でのポジティブな人間のあり方

4→リスク受容における人間の認知のくせ 

2.『アルベール・カミュ ペスト 果てしなき不条理との闘い』中条省平                            NHK出版 pp.126-128

 実際、コロナ禍のさなかでこの小説を読み直してみると、その鋭い予見性に心の底から感嘆させられます。

 現代社会は経済を第一原理として動いています。経済とは、金銭の循環、物資の流通、人間の移動と交流にほかなりませんから、そうした物と人の移動がことごとくウイルスの感染の促進に直結してしまう今回の事態は、経済活動の不可能性という無理難題を私たちの社会に突きつけてきました。『ペスト』で疫病に襲われたアフリカの植民地の町オランと同様に、日本を含めて全世界が、経済活動の停止あるいは最小限化に向かわざるをえませんでした。

『ペスト』の冒頭近くにはこう書いてあります。

「ここの市民たちは一生懸命働くが、それはつねに金を儲けるためだ」

 私たちもまた経済至上主義の社会に生きて、そのことに疑いをもたなかったのですが、コロナ禍のもとで、この経済偏重の生き方を否応なく反省させられることになりました。

 コロナ禍の初期段階で、「経済活動を制限してはいけない。そんなことをすれば、多くの人々がコロナが蔓延する前に経済の停滞で死んでしまう」といった経済活動を何より優先する言説が多く聞かれました。経済的に困窮した人を救うことは、コロナ禍のなかであろうと平常時であろうと政府の仕事です。そうではなく、経済の停滞がすぐに人々の死(自殺)を招くような過熱し切迫した経済のあり方こそ改善されるべきだという反省が、何よりも必要なのです。

3.『無人島に生きる十六人』「四つの決まり」「心の土台」より  須川邦彦 新潮社

「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。

 一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。

 二つ、できない相談をいわないこと。

 三つ、規則正しい生活をすること。

 四つ、愉快な生活を心がけること。

 さしあたって、この四つを、かたくまもろう。

(略)

水浴びがすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。

私は、じぶんの決心をうちあけていった。

「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んでいったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規則のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私たちは、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」

運転士は、いった。

「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」

漁業長は、

「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」

いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。

「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落とさないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」

4.『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』中谷内一也                           ちくまプリマ―新書 pp.60-61

問4 新型コロナ禍では、時間短縮を余儀なくされながら、感染防止に配慮しつつ、営業を継続している飲食店も多くありました。さて、あるサラリーマン(仮名:武内氏)がいます。彼は、「友人と誘い合わせて居酒屋で飲み会をする」のと、「上司の命令により同じ居酒屋で取引先を接待する」のとでは、どちらを感染リスクが高いと感じるでしょうか。実際にどちらの感染リスクが高いかではなく、武内氏がどちらをより高いと感じるかを考えてみてください。

 

おそらく、彼は自分が望んで居酒屋で過ごす場合はリスクは大したことはないと解釈し、他人に強いられて過ごす場合は、リスクは大きなものと感じることが、後に詳述するリスク認知モデルから予測されます。つまり、リスクを負う状況に至る自発性がリスク認知に影響するというわけです。もちろん、ウイルスは武内氏が望んでそこにいるのか、嫌々そこにいるのかを関知するものではありませんし、感染力が変わるわけではありません。つまり、客観的なリスクは同じであっても、自発性という要素がリスクへの「認知」を変えるということです。

 

コロナ禍の日常がもうすぐ2年になろうとしています。今回の哲学カフェではこの状況下をどう捉えるのか?・・・それぞれが考える機会になればと思っています。子どもとの向き合い方に悩んだり、イライラする自分の対処法など・・・個々に悩みは尽きないと思いますが、森のようちえんみきゃんっ子が「まずはホッとできる居場所」であればと願っています(^^)。

6/8(火)哲学カフェやります(^^)/

愛媛県総合運動公園で毎月第2火曜日に開催している「森のようちえんみきゃんっ子」内にて哲学カフェ開催します。

★今回のテーマは ~「言葉」で伝えられるもの~

今の子どもたちはコミュニケーション能力をとても求められていますが、そもそもコミュニケーションを行うために私たちが使っている言葉にはどんな可能性があるのか?使い方は?

知ってるようで知らないことが大人の私でもまだまだたくさんあるように思います。

そんな「言葉」で伝えられるもの をじっくり考えてみませんか?

6/8(火)に行う哲学カフェの原稿は下記に貼り付けておきますのでお時間ある方は是非じっくり読んでみてくださいね(^^)/

1.はじめに

 コミュニケーションとは、デジタル大辞泉によると「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる」と説明されます。この「言語・文字・身振り」の中でも、わたしたちが他者とのコミュニケーションをとる際に多く用いる手段が言語での「語り合い」でしょう。

 実際わたしたちは、意識することすらなく日常的に他者と言語を介してコミュニケーションをとっています。その際に、言葉を交わすことによって「意志や感情、思考」が伝達されています。そこで伝達されている「意志や感情、思考」と「語られている言葉」とはどのような関係にあるのでしょうか。今回は、私が口にしている言葉であなたに(あるいは、あなたが語る言葉で私に)、何が伝えられているのかということについて考えていきたいと思います。

 

 まず第一に、言葉の意味をそのままに「意志や感情、思考」を伝えることができます。例えば「嫌い」という言葉を用いて「嫌い」という感情を表現する場合。第二に、「語られている言葉」の意味を隠れ蓑として何か別のものを示す場合。「嫌い」という言葉で、その奥にある「本当は好き」という気持ちを伝えることすらできるのです。そして第三として、「語られている言葉」の意味を越えて、「私たちは今語り合っている」という事実を確認している場合。「嫌い」―「私も嫌い」という語り合いにおいて、伝達されているのは「お互いに嫌悪感を抱いているという情報」ではなく、「私たちは言葉を交わす程の関係にある」という両者の関係性の確認だと言うことができるでしょう。

 

 もちろんこのようにすっきりと区分することはできず、大概の場合、「語り」とは上で挙げられたタイプが入り混じり構成されることがほとんどです。とはいうものの、同じ一つの言葉で多様なことを伝達することができることには間違いありません。この事実から、人間のコミュニケーションの奥深さに感嘆することも、またその複雑さに煩わしさを感じることも、あるいは不得手さから絶望を感じることもあるかもしれません…。

2.言葉の意味をそのままに伝達する

『まったくゼロからの論理学』野矢茂樹 岩波書店 pp.2-3

 

1 命題と真偽

 「論理学」とは何かを説明するには、「演繹(えんえき)」とは何かを説明しなければなりません。そして「演繹(えんえき)」とは何かを説明するためには、その前にまず「命題」という言葉と「真偽」ということを理解してもらわなければなりません。

 次の例文を見てください。

例1

(1)東京ディズニーランドは千葉県にある。

(2)タヌキは有袋類である。

(3)窓を開けてください。

(4)きのう何食べた?

(5)マクドナルドのフィレオフィッシュはおいしい。

 

 この中で論理学が扱う文と扱わない文があります。それを区別する鍵は「真偽」ということです。

 例えば(1)は事実の通りだから「真」、(2)は事実と違います。有袋類というのは、カンガルーのようにメスのお腹に赤ちゃんを入れる袋がある動物のことです。タヌキにはありません。「偽」です。それに対して、(3)は「窓を開けてください」とお願いしているのだから真でも偽でもありません。(4)も質問なので真でも偽でもありません。

 このように、その文が事実を述べようとしたものである場合、それが事実の通りなら「」と言い、事実の通りではないならば「」と言います。そして、真偽が言える文のことを「命題」と呼びます。

 すると(1)と(2)は命題ですが、(3)と(4)は命題でないということになります。(略)

 

3.言葉の意味の奥にあるものを伝達する

3-1.『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田清一 TBSブリタニカ

 

 この本のなかでカウンセリングの本質を明かすために、中川米造が『医療のクリニック』で引いているターミナルケアをめぐるアンケートが取り上げられています。

 

「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者の言葉に対して、あなたならどう答えますか。

  1. 「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
  2. 「そんなこと心配しなくていいんですよ」と答える。
  3. 「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
  4. 「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
  5. 「もうだめなんだ…とそんな気がするんですね」と返す。

                                    (p.10)

 

 これはあくまで医療従事者へと向けられたアンケートなので、正解があるわけではありません。個人のキャラクターによって言葉の選択は異なるでしょうし、立場によっても違いがあるでしょう。精神科医以外の医者や医学生は⑴を選ぶことが多く、看護師や看護学生は⑶を選ぶことが多いそうです。そして精神科医やカウンセラーは⑸を選ぶようです。⑴~⑷までと⑸とは明らかな違いがあります。⑴~⑷は、患者から向けられた言葉とは違う言葉を返しています(「もうだめ」→「がんばれ」とか、「もうだめ」→「どうしてそう思うの」とかいう風に)。つまりそこでは会話のキャッチボールが行われていると言うこともできるでしょう。それに対して⑸は、患者の言葉をそのままにただなぞっているだけです。「もうだめ」という患者の言葉に対して、「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と。そこで患者は、励まされたり、同情を示されたり、新たな情報を与えられているわけではありません。キャッチボールの例を挙げるまでもなく、患者はただ「自分の言葉がきちんと受け取られた」ということを実感することのみです。しかしながら、この「受け止められた」という感覚を抱くことにより、患者は自分の発した言葉の奥にあるものへと眼差しを向ける勇気をえるのです(これがカウンセリングを受けるメリットのひとつでしょう)。

 

3-2.『看護のための生命倫理』 小林亜津子 ナカニシヤ出版 pp.18-19

  (第一章 安楽死より)

 

「苦痛」よりも「孤独」

 苦痛の緩和と並んで、患者の「よき死」を援助するために決定的な要素が、患者の精神的な面でのケアである。「死」の過程にある患者を積極的安楽死へと向かわせる直接の動機は、多くの場合、肉体的苦痛ではなく、「人生に対する絶望感、寂しさや孤独など」であるともいわれる(Schara, Joachim/Beck, Lutwin “Sterbehilfe” S.446)。

「アスピリンのような単純な苦痛対策と並んで、向精神薬の使用や、薬効の持続性の高いモルヒネ」をうまく利用さえすれば、「重度の永続的な苦痛であっても……少なくとも患者が耐えられる程度に痛みを抑えることは、ほぼ可能になってきている」(ibid.,S446)。

 オランダやアメリカ・オレゴン州など、安楽死や自殺幇助が合法的に実施されている国や地域で行われた最近の調査結果は、この筆者の主張を裏づけているように思われる。例えば、ある調査によると、末期の肉体的苦痛が患者の「安楽死」要請の原因となるのは、実際にはきわめてまれであるらしい(「時の話題」欧日ホームページ)。同調査によれば、適切な緩和ケアを受け、患者の心情面でのケアも行われてさえいれば、末期のがん患者が「安楽死」を望むことはまずないそうである。「安楽死」を要請する患者にとって、腫瘍による肉体的苦痛やそのような苦痛に襲われることに対する不安感などは、副次的な理由でしかない。患者が「安楽死」を選択する原因は別にある。その動機の多くは、「孤独、経済問題、伴侶との離別等」(同上)。その場合、肉親や医師らによる「無言の圧力」が作用することもあるという。すなわち、彼らが、患者が「安楽死」を希望するのを無言で待っているという雰囲気だけでも、患者に決定的な影響を与え得るのである。

 患者に「安楽死」を希望させる最大の原因は、孤独感ないし疎外感であるという事実が示しているのは、「安楽死」を要請する末期患者が真に求めているのは、必ずしも「死」という「エグジット(出口)」に限られるのではなく、時として患者の精神面での適切な援助、ないし情緒的なケアが必要になることもあるということだろう。

4.「語り合っている」という事実の確認のための伝達

『弱いロボット』 岡田美智男 医学書院

84

 ひとつの発話は、先行して繰り出された相手の発話を支えるというグランディングの役割と、相手からの支えを予定しつつ言葉を投げかけるという役割の二つを同時に備えている。この発話に備わる双方向の機能によって、「相手を支えつつ、同時に相手に支えられるべき関係」を形作る。(略)

 これはトーキング・アイを使って生成を試みてきた、他愛のない雑談にも当てはまるようだ。不定なまま繰り出されたなにげない発話は、相手からの応答を得て、意味や価値を与えられる。その相手からの応答は、先の発話を支えると同時に、こちらからの支えを予定して繰り出されたものだ。

 他者とのつながりを求めて不定なまま発話を繰り出すのか、そもそも、私たちの発話や行為は本源的に不定さを伴うものだから他者とつながろうとするのかはわからない。しかしいずれにせよ、相手からの応答責任を上手に引き出しながら、その「場」を一緒に生み出す。何かを相手に伝えるというより、「今、ここ」を共有する。他愛もないおしゃべりには、そういう側面もある。

 

87-89

ピングーはなぜ会話ができるのか

(略)

「ピーピー」という発話を一つひとつ切り取って聞いても意味はよくわからないが、それをピングーたちのアニメーションの中に置いてみると、意味が自然に立ち現れてくる。

「ピーピー」という発話は、その相方であるピンガの驚いたような表情によって意味が与えられる。一方でピンガの驚いたような表情は、それに先行するピングーの「ピーピー」という発話によって、意味づけられる。お互いの発話や表情を相互に構成し合っている。そうした関係が原初的な会話の場を成り立たせているのだ。

 これは電車のなかでの女性中高生の他愛もないおしゃべり、その発話の断片を耳にするときに感じる心地よさにもよく似ている。電車の中の雑音によって一つひとつの発話の意味がかき消されてしまうと、私たちの関係はなにげない発話に対するグラウンディングの行く末に移る。そうして、ほどよい「賭けと受け」の拮抗したカップリングに安心感を覚える。私たちは「何を伝えようとしているのか」ではなく、お互いは「どのようにつながっているのか」にそもそも関心があるのだ。

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 感情(passion)とは、ラテン語の‛patior’に由来します。‛patior’とは、研究社羅和辞典によると「苦しむ、受ける、耐える、許す」という意味です。つまり、「私はある感情に襲われた」という表現がいみじくも示しているように、感情に対して人間は引き受けることしかできません。私は嬉しい気持ちになりたいから、意志でもって「嬉しい気持ちになることを選ぶ」なんてできない。悦びだって哀しみだって、ただ私にやってくる。私はその感情を拒む権利をそもそも持ち合わせていないと言えます。人間は感情に対して、どこまでも受け身的であらざるをえない存在なのです。

 だとするならば、どんな種類の感情を抱いたとしても、そのこと自体は善でも悪でもありません。何らかの問題が生じるとしたら、その感情の帰結となる「振る舞い」だと言うことができるでしょう。たとえネガティブな感情を抱いたとしても(ネガティブな感情が心に湧き上がってきたとしても)そのこと自体を否定することなく、その帰結としての振る舞いに着目する。「振る舞い」ならば(場合によって容易にいかないことはあるにしても)、意志によって変更することはある程度可能ではないでしょうか。あるいは、たとえ変更できなかったとしても、異なる環境に身を置くことによってその「振る舞い」の意味するところを変えることはできそうです。

 今回は、ネガティブな感情から引き起こされる「振る舞い」の可能性について考えていきたいと思います。ネガティブな感情とは、細かく見ていくと際限がありませんが、大まかには「自分や他者を傷つけたり、破壊したいと思う気持ち」へと集約されるのではないかと思われます。

2.大江健三郎『「新しい人」の方へ』 朝日文庫 95-98

 ただ意地悪な気持に動かされて、人を批評してしまうのは、子供のやる―大人でもやりますが―いちばん良くないことのひとつです。

 子供の私にも、家族や友達や村の通りで出会うだけの人や、さらに犬や猫にたいして、意地悪な気持になることはよくあったものです。それも相手に理由があってというのではなく、自分のなかに「意地悪のエネルギー」が湧き起こって、抑えられない結果でした。

 子供が、つい意地悪なことをやってしまうのは、まあ、仕方のないことでしょう。いまいったとおり、「意地悪のエネルギー」が働きだして、それに動かされているのですから。

 そのように意地悪なことをしてしまった後で、自分が意地悪だった、と気が付かないことはまずありません。自分がやったことを、胸のなかのブラウン管に映し出されるような思いがします。しかも、「意地悪のエネルギー」は、いったん使ってしまった以上、弱くなっています。つまり、反省することは難しくありません。反省の仕方としては、自分がいったりしたりした意地悪なことをよく思い出した上で、―こんなことは、なにも生み出さない!とつくづく思うだけでいいのです。

 その反対に悪い態度は、自分が意地悪をしたのは、相手にこちらの意地悪さをさそうところがあったからだ、と考えることです。相手のヴィルネラビリティー※のせいにすることです。

 (略)

 福沢諭吉は、人間とはどういうものなのか、ということをよく知っている人でした。そして、人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、良いところはなにもないのが、「怨望(えんぼう)」だといっています。たとえば、乱暴な素質の人には―福沢は、粗暴と呼んでいますが―、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい―福沢の言葉では、怜悧(れいり)―というのです。

 しかし、怨望という素質だけは―人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが―、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。

 いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです。

 私は、子供の世界で、「怨望」に近い素質が、意地悪さじゃないか、と思っています。

 怨望イクォール意地悪さ、というのじゃありません。怨望から大人のやることが、子供のやってしまう意地悪に近い、ということです。あなたに意地悪をいったりしたりすることを続ける人がいれば、

―よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない、と自分にいえばいいのです。

 そして、自分としては、人に意地悪なことをいったりしたりはしないことにしよう、という原則をたてればいいのです。「意地悪なエネルギー」はなにも生み出しません。子供の私は「生産的でない」という言葉を本で読み、気に入って、こういう場合に使っていました。

※ヴィルネラビリティー・・・可傷性.傷つきやすさ.弱さ.フランスのユダヤ系哲学者E.レヴィナスの用語.バルネラビリティーともいう

3.河合隼雄 村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 新潮文庫 167-170

河合

 そのひとにとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういう形で生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。

 人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山にいくよりしかたないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。

 

河合 殺すことによって癒される人

 これは大変重い話題です。しかし、心理療法をしている限り決して避けて通ることはできません。「殺す」という場合、自分自身を殺す、つまり自殺も含めて考えるべきと思います。他殺あるいは自殺によってのみ癒される人は存在するのか、ということです。

 そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては―オプティミスティクすぎると言われそうですが―そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。

 夢の中で自殺や他殺を「体験」する人がいます。そのときの深い感動などに接すると、「殺すことによって癒す」体験をこの人はしたのだなと思います。わたしはクライエントの夢の中で何度も死んでいます―実際はしぶとく生きていますが―。「殺す」ことの象徴的実現に向けて、わたしの容量の可能な限り、「殺すことによってのみ癒される人」と立ち向かっていると思う時もあります。

 あるいは、文学作品の中の自殺や他殺もこのような意味を持つときもあるのではないでしょうか。

 私はあるクライエントが治療関係が終わってから、「河合先生に会った最大の不幸は自殺できなくなったことだ」と言われるのを聞いたことがあります。これはなかなか微妙な表現ですが、「自殺によって癒される人」が、私に会ったために敢て「癒されない」人生を選ぶことによって、この世に生きながらえることにされた、とも受けとることができます。この言葉はずっと私の心の中に残っていて、折にふれて自分の心理療法の在り方について反省する景気を与えてくれています。

 ともかく、人間の「死」ということに関する限り、一般論はできない、と私は思っています。

※オプティミスティク・・・楽天主義の、楽観的な

4.小松美彦『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 現代書館245-246

「尊厳」とは立ち現れる共鳴関係のことである

 ここで話を中村有里ちゃんに戻します。「有里は生きる姿を変えただけなんです」という言葉で、お母さんは、どんな状態になっても「いる」ことが大事なのだと訴えたかったのでしょう。ただし、その言葉と語りには豊かな構造があります。すなわち、有里が生れ落ち、脳死状態となり、闘病生活を続けてきた、こうした一連の過去が現在の立脚点になっており、その現在は未来へと開かれたものになっている。そして、開かれた先には「いない」が待っている。「しばらくの間いない」のではなく、「永遠にいない」日がやがては到来する。お母さんはこのすべてを引き受けて、かの言葉を発したといってよいでしょう。いつ訪れるかわからない「いない」を含み込んだ「いる」であることを、お母さんは覚悟していたのだと思います。

 この意味で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語ったその瞬間に、お母さんと有里ちゃんとの間に立ち現れた共鳴関係、それが《人間の尊厳》なのです。

 そうすると、《人間の尊厳》とは、大それたことではありません。「ただいること」をめぐって生起する当たり前のことです。本書ではあえて分析的に論じましたが、本当は誰しもが日常生活のなかで感じてきたはずのことなのです。メーテルリンク作『青い鳥』のチルチルとミチルは、夢のなかで幸せ(本当に青い鳥)を求めて旅立ち、探しあぐねて夢から覚めると、幸せとは最も身近でささやかな日常(もともと飼っていたただの青い鳥)であったことがわかります。《人間の尊厳》も、これと同じでしょう―それゆえに私は、「「人間の尊厳」などという概念はなくてもよいと思っています」と先述したのです。

 そうでもあるにもかかわらず、私たち人間は、〝本当に青い″「人間の尊厳」を探し求め、「理性」、「知性」、「精神」、「生きようとする意志」、「自己意識」等々として、みつけたつもりになってきました。そしてその結果、「もう二度とこんなことを繰り返してはならない」事態を引き起こし、今もなお引き起こしつづけています。脳死者、植物状態や終末期の患者、人工呼吸器や人工透析器や胃瘻によって生かされている人々……、この者たちは「人間の尊厳」を損なっている、だから尊厳のある死を、と。

 しかしながら、これまで述べてきたように、《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》の要素が損なわれているのは、逆説的にも、脳死者たちではなく、脳死者等々には「人間の尊厳が損なわれている」と考える人々のほうなのです。そしてそうだとすると、この人々が《人間の尊厳》に出会うことは、チルチルとミチルのように普通の「幸せ」に気づくことは永遠にないでしょう。「このままでは」とは、「脳死者たちを対象化しているかぎり」と言い換えてもよいでしょう。そもそも対象化とは、眼前の者たちの固有性を受け入れて己が一体化することを、拒絶する姿勢に他ならないからです。

【自分自身の悩みを紐解くヒントとして…】

子育ても、夫婦関係も、仕事においても悩みは尽きないものですが、そんな悩みを違う観点から考えてみるという時間も大切なように思います。

わが子の発達段階が他の子と比べて遅かったり、早すぎたり、乱暴だったり、おとなしかったり・・・普通という枠から外れることが不安につながり、ネガティブ思考へとシフトする傾向にありますが、それはどうしてなのか?

普通が良いことなのか?なぜ不安なのか?親としてどうとらえていくことが良いことなのか?

毎回答えはないけど、各々が自分の今の悩みと向き合いながらゆっくりと考える時間にしたいと思います。

意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1. はじめに

私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。

 

 とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。

2.『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 小松美彦 現代書館

 pp.357-358

(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。

 

 日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。

 

 とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。

3.『亜由未が教えてくれたこと〝障害を生きる〟妹と家族の8800日』 坂川裕野 NHK出版

  1. 181-182

 一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。

 母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。

 お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。

 いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。

「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」

 何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。

4.『「待つ」ということ』 鷲田清一 角川選書

  1. 61-63

(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。

 ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。

 息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。

 母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。

 違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。

 また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。

 今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。

2.『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』 松沢哲郎 岩波書店

 はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。

(略)

アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。

サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。

はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。

これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。

はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)

3.『「キモさ」の解剖室』 春日武彦 イースト・プレス

少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。

 でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)

4.『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹 編 犀の教室

 この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。

 勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。

 教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)

 

わかってしまうとコミュニケーションは終わる

 誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。

 ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。

 人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。

 でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。

 そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。

 読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。

「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。

他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。

2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より

(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。

学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。

 

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。

講談社現代新書p.p.114-116

3.「他者との共存」

哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。

 

 国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。

 オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)

 人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。

 むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。

 国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。

 文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。

                                  『AERA』2020年10月12日号

 

ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。

4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より

 これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。

 人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。

                                 晶文社 pp.109-110

【このテーマをどう読み解くのか?】

「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。

理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。

自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。

他者との関わり方・・・

他者とは・・・

他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。

見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。