「コロナ禍の今、見えるもの、考えること」…2021.10.12哲学カフェのテーマ

「コロナ禍の今、見えるもの、考えること」…2021.10.12哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 「コロナ禍」という言葉が私たちの日常に入り込み、もう二度目の秋を迎えています。外出する際にマスクは、スマホ、財布、鍵と並ぶ必需品となりました。コロナ禍において日常は刷新され、私たちは「ニューノーマル」という「新たな常識」を迎え入れないといけない、ということになっているようです。マスクや消毒や人との距離について常に意識しなければならなくなり、たかだか三年前のマスクなしの日常風景にすでに違和感を抱くほどです。しかしながら、このような時だからこそ(あえて言うならば「異常時」だからこそ)見えてくる事柄、そしてそこから考えるに値するような事柄に出会うこともあるのではないでしょうか。

 今日は「コロナ禍」をキーワードに拾ってきた文章をもとに、みなさんと一緒におしゃべりに興じることができたらいいなと思っています。

 以下、引用です。テーマはもちろん「コロナ禍」ですが、敢えて副題を示すとしたら次のようになります。

 

2→「コロナ禍」で見えてきたもの

3→極限状態でのポジティブな人間のあり方

4→リスク受容における人間の認知のくせ 

2.『アルベール・カミュ ペスト 果てしなき不条理との闘い』中条省平                            NHK出版 pp.126-128

 実際、コロナ禍のさなかでこの小説を読み直してみると、その鋭い予見性に心の底から感嘆させられます。

 現代社会は経済を第一原理として動いています。経済とは、金銭の循環、物資の流通、人間の移動と交流にほかなりませんから、そうした物と人の移動がことごとくウイルスの感染の促進に直結してしまう今回の事態は、経済活動の不可能性という無理難題を私たちの社会に突きつけてきました。『ペスト』で疫病に襲われたアフリカの植民地の町オランと同様に、日本を含めて全世界が、経済活動の停止あるいは最小限化に向かわざるをえませんでした。

『ペスト』の冒頭近くにはこう書いてあります。

「ここの市民たちは一生懸命働くが、それはつねに金を儲けるためだ」

 私たちもまた経済至上主義の社会に生きて、そのことに疑いをもたなかったのですが、コロナ禍のもとで、この経済偏重の生き方を否応なく反省させられることになりました。

 コロナ禍の初期段階で、「経済活動を制限してはいけない。そんなことをすれば、多くの人々がコロナが蔓延する前に経済の停滞で死んでしまう」といった経済活動を何より優先する言説が多く聞かれました。経済的に困窮した人を救うことは、コロナ禍のなかであろうと平常時であろうと政府の仕事です。そうではなく、経済の停滞がすぐに人々の死(自殺)を招くような過熱し切迫した経済のあり方こそ改善されるべきだという反省が、何よりも必要なのです。

3.『無人島に生きる十六人』「四つの決まり」「心の土台」より  須川邦彦 新潮社

「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。

 一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。

 二つ、できない相談をいわないこと。

 三つ、規則正しい生活をすること。

 四つ、愉快な生活を心がけること。

 さしあたって、この四つを、かたくまもろう。

(略)

水浴びがすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。

私は、じぶんの決心をうちあけていった。

「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んでいったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規則のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私たちは、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」

運転士は、いった。

「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」

漁業長は、

「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」

いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。

「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落とさないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」

4.『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』中谷内一也                           ちくまプリマ―新書 pp.60-61

問4 新型コロナ禍では、時間短縮を余儀なくされながら、感染防止に配慮しつつ、営業を継続している飲食店も多くありました。さて、あるサラリーマン(仮名:武内氏)がいます。彼は、「友人と誘い合わせて居酒屋で飲み会をする」のと、「上司の命令により同じ居酒屋で取引先を接待する」のとでは、どちらを感染リスクが高いと感じるでしょうか。実際にどちらの感染リスクが高いかではなく、武内氏がどちらをより高いと感じるかを考えてみてください。

 

おそらく、彼は自分が望んで居酒屋で過ごす場合はリスクは大したことはないと解釈し、他人に強いられて過ごす場合は、リスクは大きなものと感じることが、後に詳述するリスク認知モデルから予測されます。つまり、リスクを負う状況に至る自発性がリスク認知に影響するというわけです。もちろん、ウイルスは武内氏が望んでそこにいるのか、嫌々そこにいるのかを関知するものではありませんし、感染力が変わるわけではありません。つまり、客観的なリスクは同じであっても、自発性という要素がリスクへの「認知」を変えるということです。

 

コロナ禍の日常がもうすぐ2年になろうとしています。今回の哲学カフェではこの状況下をどう捉えるのか?・・・それぞれが考える機会になればと思っています。子どもとの向き合い方に悩んだり、イライラする自分の対処法など・・・個々に悩みは尽きないと思いますが、森のようちえんみきゃんっ子が「まずはホッとできる居場所」であればと願っています(^^)。

6/8(火)哲学カフェやります(^^)/

愛媛県総合運動公園で毎月第2火曜日に開催している「森のようちえんみきゃんっ子」内にて哲学カフェ開催します。

★今回のテーマは ~「言葉」で伝えられるもの~

今の子どもたちはコミュニケーション能力をとても求められていますが、そもそもコミュニケーションを行うために私たちが使っている言葉にはどんな可能性があるのか?使い方は?

知ってるようで知らないことが大人の私でもまだまだたくさんあるように思います。

そんな「言葉」で伝えられるもの をじっくり考えてみませんか?

6/8(火)に行う哲学カフェの原稿は下記に貼り付けておきますのでお時間ある方は是非じっくり読んでみてくださいね(^^)/

1.はじめに

 コミュニケーションとは、デジタル大辞泉によると「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる」と説明されます。この「言語・文字・身振り」の中でも、わたしたちが他者とのコミュニケーションをとる際に多く用いる手段が言語での「語り合い」でしょう。

 実際わたしたちは、意識することすらなく日常的に他者と言語を介してコミュニケーションをとっています。その際に、言葉を交わすことによって「意志や感情、思考」が伝達されています。そこで伝達されている「意志や感情、思考」と「語られている言葉」とはどのような関係にあるのでしょうか。今回は、私が口にしている言葉であなたに(あるいは、あなたが語る言葉で私に)、何が伝えられているのかということについて考えていきたいと思います。

 

 まず第一に、言葉の意味をそのままに「意志や感情、思考」を伝えることができます。例えば「嫌い」という言葉を用いて「嫌い」という感情を表現する場合。第二に、「語られている言葉」の意味を隠れ蓑として何か別のものを示す場合。「嫌い」という言葉で、その奥にある「本当は好き」という気持ちを伝えることすらできるのです。そして第三として、「語られている言葉」の意味を越えて、「私たちは今語り合っている」という事実を確認している場合。「嫌い」―「私も嫌い」という語り合いにおいて、伝達されているのは「お互いに嫌悪感を抱いているという情報」ではなく、「私たちは言葉を交わす程の関係にある」という両者の関係性の確認だと言うことができるでしょう。

 

 もちろんこのようにすっきりと区分することはできず、大概の場合、「語り」とは上で挙げられたタイプが入り混じり構成されることがほとんどです。とはいうものの、同じ一つの言葉で多様なことを伝達することができることには間違いありません。この事実から、人間のコミュニケーションの奥深さに感嘆することも、またその複雑さに煩わしさを感じることも、あるいは不得手さから絶望を感じることもあるかもしれません…。

2.言葉の意味をそのままに伝達する

『まったくゼロからの論理学』野矢茂樹 岩波書店 pp.2-3

 

1 命題と真偽

 「論理学」とは何かを説明するには、「演繹(えんえき)」とは何かを説明しなければなりません。そして「演繹(えんえき)」とは何かを説明するためには、その前にまず「命題」という言葉と「真偽」ということを理解してもらわなければなりません。

 次の例文を見てください。

例1

(1)東京ディズニーランドは千葉県にある。

(2)タヌキは有袋類である。

(3)窓を開けてください。

(4)きのう何食べた?

(5)マクドナルドのフィレオフィッシュはおいしい。

 

 この中で論理学が扱う文と扱わない文があります。それを区別する鍵は「真偽」ということです。

 例えば(1)は事実の通りだから「真」、(2)は事実と違います。有袋類というのは、カンガルーのようにメスのお腹に赤ちゃんを入れる袋がある動物のことです。タヌキにはありません。「偽」です。それに対して、(3)は「窓を開けてください」とお願いしているのだから真でも偽でもありません。(4)も質問なので真でも偽でもありません。

 このように、その文が事実を述べようとしたものである場合、それが事実の通りなら「」と言い、事実の通りではないならば「」と言います。そして、真偽が言える文のことを「命題」と呼びます。

 すると(1)と(2)は命題ですが、(3)と(4)は命題でないということになります。(略)

 

3.言葉の意味の奥にあるものを伝達する

3-1.『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田清一 TBSブリタニカ

 

 この本のなかでカウンセリングの本質を明かすために、中川米造が『医療のクリニック』で引いているターミナルケアをめぐるアンケートが取り上げられています。

 

「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者の言葉に対して、あなたならどう答えますか。

  1. 「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
  2. 「そんなこと心配しなくていいんですよ」と答える。
  3. 「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
  4. 「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
  5. 「もうだめなんだ…とそんな気がするんですね」と返す。

                                    (p.10)

 

 これはあくまで医療従事者へと向けられたアンケートなので、正解があるわけではありません。個人のキャラクターによって言葉の選択は異なるでしょうし、立場によっても違いがあるでしょう。精神科医以外の医者や医学生は⑴を選ぶことが多く、看護師や看護学生は⑶を選ぶことが多いそうです。そして精神科医やカウンセラーは⑸を選ぶようです。⑴~⑷までと⑸とは明らかな違いがあります。⑴~⑷は、患者から向けられた言葉とは違う言葉を返しています(「もうだめ」→「がんばれ」とか、「もうだめ」→「どうしてそう思うの」とかいう風に)。つまりそこでは会話のキャッチボールが行われていると言うこともできるでしょう。それに対して⑸は、患者の言葉をそのままにただなぞっているだけです。「もうだめ」という患者の言葉に対して、「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と。そこで患者は、励まされたり、同情を示されたり、新たな情報を与えられているわけではありません。キャッチボールの例を挙げるまでもなく、患者はただ「自分の言葉がきちんと受け取られた」ということを実感することのみです。しかしながら、この「受け止められた」という感覚を抱くことにより、患者は自分の発した言葉の奥にあるものへと眼差しを向ける勇気をえるのです(これがカウンセリングを受けるメリットのひとつでしょう)。

 

3-2.『看護のための生命倫理』 小林亜津子 ナカニシヤ出版 pp.18-19

  (第一章 安楽死より)

 

「苦痛」よりも「孤独」

 苦痛の緩和と並んで、患者の「よき死」を援助するために決定的な要素が、患者の精神的な面でのケアである。「死」の過程にある患者を積極的安楽死へと向かわせる直接の動機は、多くの場合、肉体的苦痛ではなく、「人生に対する絶望感、寂しさや孤独など」であるともいわれる(Schara, Joachim/Beck, Lutwin “Sterbehilfe” S.446)。

「アスピリンのような単純な苦痛対策と並んで、向精神薬の使用や、薬効の持続性の高いモルヒネ」をうまく利用さえすれば、「重度の永続的な苦痛であっても……少なくとも患者が耐えられる程度に痛みを抑えることは、ほぼ可能になってきている」(ibid.,S446)。

 オランダやアメリカ・オレゴン州など、安楽死や自殺幇助が合法的に実施されている国や地域で行われた最近の調査結果は、この筆者の主張を裏づけているように思われる。例えば、ある調査によると、末期の肉体的苦痛が患者の「安楽死」要請の原因となるのは、実際にはきわめてまれであるらしい(「時の話題」欧日ホームページ)。同調査によれば、適切な緩和ケアを受け、患者の心情面でのケアも行われてさえいれば、末期のがん患者が「安楽死」を望むことはまずないそうである。「安楽死」を要請する患者にとって、腫瘍による肉体的苦痛やそのような苦痛に襲われることに対する不安感などは、副次的な理由でしかない。患者が「安楽死」を選択する原因は別にある。その動機の多くは、「孤独、経済問題、伴侶との離別等」(同上)。その場合、肉親や医師らによる「無言の圧力」が作用することもあるという。すなわち、彼らが、患者が「安楽死」を希望するのを無言で待っているという雰囲気だけでも、患者に決定的な影響を与え得るのである。

 患者に「安楽死」を希望させる最大の原因は、孤独感ないし疎外感であるという事実が示しているのは、「安楽死」を要請する末期患者が真に求めているのは、必ずしも「死」という「エグジット(出口)」に限られるのではなく、時として患者の精神面での適切な援助、ないし情緒的なケアが必要になることもあるということだろう。

4.「語り合っている」という事実の確認のための伝達

『弱いロボット』 岡田美智男 医学書院

84

 ひとつの発話は、先行して繰り出された相手の発話を支えるというグランディングの役割と、相手からの支えを予定しつつ言葉を投げかけるという役割の二つを同時に備えている。この発話に備わる双方向の機能によって、「相手を支えつつ、同時に相手に支えられるべき関係」を形作る。(略)

 これはトーキング・アイを使って生成を試みてきた、他愛のない雑談にも当てはまるようだ。不定なまま繰り出されたなにげない発話は、相手からの応答を得て、意味や価値を与えられる。その相手からの応答は、先の発話を支えると同時に、こちらからの支えを予定して繰り出されたものだ。

 他者とのつながりを求めて不定なまま発話を繰り出すのか、そもそも、私たちの発話や行為は本源的に不定さを伴うものだから他者とつながろうとするのかはわからない。しかしいずれにせよ、相手からの応答責任を上手に引き出しながら、その「場」を一緒に生み出す。何かを相手に伝えるというより、「今、ここ」を共有する。他愛もないおしゃべりには、そういう側面もある。

 

87-89

ピングーはなぜ会話ができるのか

(略)

「ピーピー」という発話を一つひとつ切り取って聞いても意味はよくわからないが、それをピングーたちのアニメーションの中に置いてみると、意味が自然に立ち現れてくる。

「ピーピー」という発話は、その相方であるピンガの驚いたような表情によって意味が与えられる。一方でピンガの驚いたような表情は、それに先行するピングーの「ピーピー」という発話によって、意味づけられる。お互いの発話や表情を相互に構成し合っている。そうした関係が原初的な会話の場を成り立たせているのだ。

 これは電車のなかでの女性中高生の他愛もないおしゃべり、その発話の断片を耳にするときに感じる心地よさにもよく似ている。電車の中の雑音によって一つひとつの発話の意味がかき消されてしまうと、私たちの関係はなにげない発話に対するグラウンディングの行く末に移る。そうして、ほどよい「賭けと受け」の拮抗したカップリングに安心感を覚える。私たちは「何を伝えようとしているのか」ではなく、お互いは「どのようにつながっているのか」にそもそも関心があるのだ。

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 感情(passion)とは、ラテン語の‛patior’に由来します。‛patior’とは、研究社羅和辞典によると「苦しむ、受ける、耐える、許す」という意味です。つまり、「私はある感情に襲われた」という表現がいみじくも示しているように、感情に対して人間は引き受けることしかできません。私は嬉しい気持ちになりたいから、意志でもって「嬉しい気持ちになることを選ぶ」なんてできない。悦びだって哀しみだって、ただ私にやってくる。私はその感情を拒む権利をそもそも持ち合わせていないと言えます。人間は感情に対して、どこまでも受け身的であらざるをえない存在なのです。

 だとするならば、どんな種類の感情を抱いたとしても、そのこと自体は善でも悪でもありません。何らかの問題が生じるとしたら、その感情の帰結となる「振る舞い」だと言うことができるでしょう。たとえネガティブな感情を抱いたとしても(ネガティブな感情が心に湧き上がってきたとしても)そのこと自体を否定することなく、その帰結としての振る舞いに着目する。「振る舞い」ならば(場合によって容易にいかないことはあるにしても)、意志によって変更することはある程度可能ではないでしょうか。あるいは、たとえ変更できなかったとしても、異なる環境に身を置くことによってその「振る舞い」の意味するところを変えることはできそうです。

 今回は、ネガティブな感情から引き起こされる「振る舞い」の可能性について考えていきたいと思います。ネガティブな感情とは、細かく見ていくと際限がありませんが、大まかには「自分や他者を傷つけたり、破壊したいと思う気持ち」へと集約されるのではないかと思われます。

2.大江健三郎『「新しい人」の方へ』 朝日文庫 95-98

 ただ意地悪な気持に動かされて、人を批評してしまうのは、子供のやる―大人でもやりますが―いちばん良くないことのひとつです。

 子供の私にも、家族や友達や村の通りで出会うだけの人や、さらに犬や猫にたいして、意地悪な気持になることはよくあったものです。それも相手に理由があってというのではなく、自分のなかに「意地悪のエネルギー」が湧き起こって、抑えられない結果でした。

 子供が、つい意地悪なことをやってしまうのは、まあ、仕方のないことでしょう。いまいったとおり、「意地悪のエネルギー」が働きだして、それに動かされているのですから。

 そのように意地悪なことをしてしまった後で、自分が意地悪だった、と気が付かないことはまずありません。自分がやったことを、胸のなかのブラウン管に映し出されるような思いがします。しかも、「意地悪のエネルギー」は、いったん使ってしまった以上、弱くなっています。つまり、反省することは難しくありません。反省の仕方としては、自分がいったりしたりした意地悪なことをよく思い出した上で、―こんなことは、なにも生み出さない!とつくづく思うだけでいいのです。

 その反対に悪い態度は、自分が意地悪をしたのは、相手にこちらの意地悪さをさそうところがあったからだ、と考えることです。相手のヴィルネラビリティー※のせいにすることです。

 (略)

 福沢諭吉は、人間とはどういうものなのか、ということをよく知っている人でした。そして、人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、良いところはなにもないのが、「怨望(えんぼう)」だといっています。たとえば、乱暴な素質の人には―福沢は、粗暴と呼んでいますが―、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい―福沢の言葉では、怜悧(れいり)―というのです。

 しかし、怨望という素質だけは―人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが―、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。

 いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです。

 私は、子供の世界で、「怨望」に近い素質が、意地悪さじゃないか、と思っています。

 怨望イクォール意地悪さ、というのじゃありません。怨望から大人のやることが、子供のやってしまう意地悪に近い、ということです。あなたに意地悪をいったりしたりすることを続ける人がいれば、

―よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない、と自分にいえばいいのです。

 そして、自分としては、人に意地悪なことをいったりしたりはしないことにしよう、という原則をたてればいいのです。「意地悪なエネルギー」はなにも生み出しません。子供の私は「生産的でない」という言葉を本で読み、気に入って、こういう場合に使っていました。

※ヴィルネラビリティー・・・可傷性.傷つきやすさ.弱さ.フランスのユダヤ系哲学者E.レヴィナスの用語.バルネラビリティーともいう

3.河合隼雄 村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 新潮文庫 167-170

河合

 そのひとにとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういう形で生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。

 人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山にいくよりしかたないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。

 

河合 殺すことによって癒される人

 これは大変重い話題です。しかし、心理療法をしている限り決して避けて通ることはできません。「殺す」という場合、自分自身を殺す、つまり自殺も含めて考えるべきと思います。他殺あるいは自殺によってのみ癒される人は存在するのか、ということです。

 そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては―オプティミスティクすぎると言われそうですが―そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。

 夢の中で自殺や他殺を「体験」する人がいます。そのときの深い感動などに接すると、「殺すことによって癒す」体験をこの人はしたのだなと思います。わたしはクライエントの夢の中で何度も死んでいます―実際はしぶとく生きていますが―。「殺す」ことの象徴的実現に向けて、わたしの容量の可能な限り、「殺すことによってのみ癒される人」と立ち向かっていると思う時もあります。

 あるいは、文学作品の中の自殺や他殺もこのような意味を持つときもあるのではないでしょうか。

 私はあるクライエントが治療関係が終わってから、「河合先生に会った最大の不幸は自殺できなくなったことだ」と言われるのを聞いたことがあります。これはなかなか微妙な表現ですが、「自殺によって癒される人」が、私に会ったために敢て「癒されない」人生を選ぶことによって、この世に生きながらえることにされた、とも受けとることができます。この言葉はずっと私の心の中に残っていて、折にふれて自分の心理療法の在り方について反省する景気を与えてくれています。

 ともかく、人間の「死」ということに関する限り、一般論はできない、と私は思っています。

※オプティミスティク・・・楽天主義の、楽観的な

4.小松美彦『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 現代書館245-246

「尊厳」とは立ち現れる共鳴関係のことである

 ここで話を中村有里ちゃんに戻します。「有里は生きる姿を変えただけなんです」という言葉で、お母さんは、どんな状態になっても「いる」ことが大事なのだと訴えたかったのでしょう。ただし、その言葉と語りには豊かな構造があります。すなわち、有里が生れ落ち、脳死状態となり、闘病生活を続けてきた、こうした一連の過去が現在の立脚点になっており、その現在は未来へと開かれたものになっている。そして、開かれた先には「いない」が待っている。「しばらくの間いない」のではなく、「永遠にいない」日がやがては到来する。お母さんはこのすべてを引き受けて、かの言葉を発したといってよいでしょう。いつ訪れるかわからない「いない」を含み込んだ「いる」であることを、お母さんは覚悟していたのだと思います。

 この意味で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語ったその瞬間に、お母さんと有里ちゃんとの間に立ち現れた共鳴関係、それが《人間の尊厳》なのです。

 そうすると、《人間の尊厳》とは、大それたことではありません。「ただいること」をめぐって生起する当たり前のことです。本書ではあえて分析的に論じましたが、本当は誰しもが日常生活のなかで感じてきたはずのことなのです。メーテルリンク作『青い鳥』のチルチルとミチルは、夢のなかで幸せ(本当に青い鳥)を求めて旅立ち、探しあぐねて夢から覚めると、幸せとは最も身近でささやかな日常(もともと飼っていたただの青い鳥)であったことがわかります。《人間の尊厳》も、これと同じでしょう―それゆえに私は、「「人間の尊厳」などという概念はなくてもよいと思っています」と先述したのです。

 そうでもあるにもかかわらず、私たち人間は、〝本当に青い″「人間の尊厳」を探し求め、「理性」、「知性」、「精神」、「生きようとする意志」、「自己意識」等々として、みつけたつもりになってきました。そしてその結果、「もう二度とこんなことを繰り返してはならない」事態を引き起こし、今もなお引き起こしつづけています。脳死者、植物状態や終末期の患者、人工呼吸器や人工透析器や胃瘻によって生かされている人々……、この者たちは「人間の尊厳」を損なっている、だから尊厳のある死を、と。

 しかしながら、これまで述べてきたように、《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》の要素が損なわれているのは、逆説的にも、脳死者たちではなく、脳死者等々には「人間の尊厳が損なわれている」と考える人々のほうなのです。そしてそうだとすると、この人々が《人間の尊厳》に出会うことは、チルチルとミチルのように普通の「幸せ」に気づくことは永遠にないでしょう。「このままでは」とは、「脳死者たちを対象化しているかぎり」と言い換えてもよいでしょう。そもそも対象化とは、眼前の者たちの固有性を受け入れて己が一体化することを、拒絶する姿勢に他ならないからです。

【自分自身の悩みを紐解くヒントとして…】

子育ても、夫婦関係も、仕事においても悩みは尽きないものですが、そんな悩みを違う観点から考えてみるという時間も大切なように思います。

わが子の発達段階が他の子と比べて遅かったり、早すぎたり、乱暴だったり、おとなしかったり・・・普通という枠から外れることが不安につながり、ネガティブ思考へとシフトする傾向にありますが、それはどうしてなのか?

普通が良いことなのか?なぜ不安なのか?親としてどうとらえていくことが良いことなのか?

毎回答えはないけど、各々が自分の今の悩みと向き合いながらゆっくりと考える時間にしたいと思います。

意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1. はじめに

私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。

 

 とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。

2.『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 小松美彦 現代書館

 pp.357-358

(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。

 

 日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。

 

 とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。

3.『亜由未が教えてくれたこと〝障害を生きる〟妹と家族の8800日』 坂川裕野 NHK出版

  1. 181-182

 一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。

 母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。

 お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。

 いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。

「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」

 何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。

4.『「待つ」ということ』 鷲田清一 角川選書

  1. 61-63

(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。

 ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。

 息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。

 母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。

 違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。

 また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。

 今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。

2.『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』 松沢哲郎 岩波書店

 はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。

(略)

アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。

サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。

はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。

これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。

はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)

3.『「キモさ」の解剖室』 春日武彦 イースト・プレス

少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。

 でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)

4.『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹 編 犀の教室

 この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。

 勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。

 教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)

 

わかってしまうとコミュニケーションは終わる

 誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。

 ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。

 人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。

 でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。

 そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。

 読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。

「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。

他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。

2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より

(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。

学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。

 

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。

講談社現代新書p.p.114-116

3.「他者との共存」

哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。

 

 国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。

 オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)

 人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。

 むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。

 国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。

 文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。

                                  『AERA』2020年10月12日号

 

ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。

4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より

 これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。

 人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。

                                 晶文社 pp.109-110

【このテーマをどう読み解くのか?】

「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。

理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。

自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。

他者との関わり方・・・

他者とは・・・

他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。

見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。

「私がいること」「あなたがいること」―「今ここに在る」ことの不思議2020.11.10哲学カフェのテーマ

「私がいること」「あなたがいること」―「今ここに在る」ことの不思議

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

  • はじめに

 少し専門的な話になりますが…、哲学では伝統的に「存在(在ること)」には二様のタイプがあるとされています。「私が…である」こと、そして「私がある」こと。(前者は「そのものの内実」が示されているので「本質存在」、後者は「そのものが現実に存在している」ことが示されているので「現実存在(実存)」と言われます。)私たちは社会的な役割や属性をうることで、数多の「…である」ことができます。「母親である」ことができたり、「教員である」ことができたり…ですね。実際私たちは、自分たちが「何である」かということに眼差しを向けがちです。自分自身の内実をできるだけ価値のあるものにしたい、というのは自然な感情でしょう。子どもたちを育てていくうえでも、その内実をなるべく豊かにしてあげたいと思うのも自然な感情だと思われます。それに対して、私たちは「私がいる(在る)」ことや「あなたがいる(在る)」ことは、あまりにも当然で当たり前に過ぎるので、日常的に考えたりすることはあまりないのではないでしょうか。

そもそも「私が…である」ことができるためには、「私がいる」こと(=現実に存在していること)が前提として必要となります。「私がいる」ことは「私が…である」ことよりも、より根源的な出来事なのです。根源的でありながらも日常的にはあまり思考することのない「私がいること」「あなたがいること」について、その不思議さに触れてみましょう。

2.「ありのままに在ること」の歓び

―アーノルド・ローベル「ひとりきり」より

(前略)

「でも がまくん。」と、かえるくんは いいました。

「ぼくは うれしいんだよ。 とても うれしいんだ。

けさ めをさますと おひさまが てっていて、いい きもちだった。

じぶんが 1ぴきの かえるだ ということが、いい きもちだった。

そして きみという ともだちが いてね、それを おもって いい きもちだった。

それで 一人きりに なりたかったんだよ。

なんで なにもかも みんな こんなに すばらしいのか

 その ことを かんがえてみたかったんだよ。」

「ああ そうだったのか。」と、がまくんは いいました。

「それなら やっぱり ひとりきりになりたいよ。」

「でも、」と、かえるくんが いいました。

「いまは きみが いてくれて うれしいよ。 さあ ごはんを たべよう。」

ふたりは ごごの あいだ ずっと しまで すごしました。

アイス・ティーなしで、 ぬれた サンドイッチを たべました。

ふたりきりで すわっている かえるくんと がまくんは、 しんゆうでした。

アーノルド・ローベル「ひとりきり」p.62-64

(『ふたりは きょうも』所収 三木卓訳 文化出版局 ミセスこどもの本)

3.「存在しない」のではなく、「存在している」ということ

―古東哲明『〈在る〉ことの不思議』より

存在の虚無性とは、神羅万象が〈在ること〉に、なにか必然的な存在理由も、しかるべき起源や目的も、原理的に欠けているということである。それはいいかえれば、〈在る〉とはつねに、「在る必然性などさらさらないのに在る」ということであり、「無くても論理的には少しもふしぎではないのに在るということである。つまり、非在こそ論理的にはむしろオリジナル、無くてあたりまえで自明で必然ですらある、にもかかわらず、現に人は生きて在り、のみならず万物が在る、ということである。

 非在こそ当然であるという論理的必然性。にもかかわらず、現になにかが〈在る〉という存在のまぎれもない事実性。この論理と事実とがつきあわされるとき、なにかが〈在り〉、この世が〈在る〉ということは、極度に「非-自明」で「稀-有」なできごとだという思いが、静かに炙りだされてこないだろうか。極度に非自明で稀有なことを、神秘的あるいは不思議(mystériux)と形容することはゆるされよう。ならば、なにかが存在するということは、たったそれだけのことで無条件に、神秘的な出来事にほかなるまい。しかも万物はいずれ非在化することを加味してみれば、在ることの不思議(存在神秘)の思いは、いっそう募るはずである。

 もしそうであれば、存在の虚無性あるいは儚さとは、存在神秘の逆証であり、その別名にほかならぬことになろう。虚無で儚い生起であればこそ、存在は神秘である。(後略)

『〈在る〉ことの不思議』古東哲明 勁草書房 pp.3-4

4.「それは信じられぬほど すばらしいこと」

「あかんぼがいる」 谷川俊太郎

いつもの新年と どこかちがうと思ったら

今年はあかんぼがいる

あかんぼがあくびする

びっくりする

あかんぼがしゃっくりする

ほとほと感心する

あかんぼは 私の子の子だから

よく考えてみると孫である

つまり私は祖父というものである

祖父というものは

もっと立派なものかと思っていたが

そうではないとわかった

あかんぼがあらぬ方を見て 眉をしかめる

へどもどする

何か落ち度があったのではないか

私に限らず おとなの世界は落ち度だらけである

ときどきあかんぼが笑ってくれると

安心する

ようし見てろ

おれだって立派なよぼよぼじいさんになってみせるぞ

あかんぼよ

お前さんは何になるのか

妖女になるのか貞女になるのか

それとも烈女になるのか天女になるのか

どれも今は はやらない

だがお前もいつかは ばあさんになる

それは信じられぬほど すばらしいこと

うそだと思ったら

ずうっと生きてってごらん

うろたえたり居直ったり

げらげら笑ったりめそめそ泣いたり

ぼんやりしたりしゃかりきになったり

【このテーマをどう読み解くのか?】

わが子が自分にとってどんな存在?

生まれた時はどんな気持ちだったかな?

母としての自分が今ココにいるということ・・・そしてわが子が今いるということ

当たり前だから、平凡な日常の中では考えないことが多いけど、あたらめて考えてみると気づきもあるのではないでしょうか。

「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」2020.10.13哲学カフェのテーマ   

森のようちえんみきゃんっ子内で毎月第2火曜日に開催してる哲学カフェの内容を掲載しています。今回のテーマは「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」です。

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

【はじめに】

 「大きくなったら何になりたいか」と、大人は子どもに問いかけます。(幼いころは「妖精」だったり「動物」だったりする子どもの答えは、成長に伴い「ケーキ屋さん」「幼稚園の先生」「パイロット」などとより現実的なものになっていきます。)

この問いには、2つの暗黙の了解が潜んでいます。

「大きくなったら、今の自分とは異なる何かにならなければならない」ということ。そして、「『今』という時は『将来』のための準備期間である(将来のために努力しなければならない)」ということ。

私たちはこの問いに繰り返し触れてきているので、そこに潜んでいる了解に対しても違和感を感じることはほとんどありません。実際に叶うかどうかは別にして、将来何かにならなきゃいけないし、そのための努力も(理想的には)怠らないほうがよいのだと。だけど本当にそうでしょうか。私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問う―それが哲学です。

 私たちの(そしていわゆる「資本主義社会」の)当たり前とは異なる価値観を形成する民族に関する文章に触れることで、改めて自分たちの「常識」に光を当てることができたらな…と思います。

 

1.アマゾン ピダハン族-『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』

 

(略)10代の破天荒さは万国共通のようだ。

けれどもピダハンの若者が引きこもっているのは見たことがない。いつまでもふて寝をしたり、自分のとった行動の責任から逃げようとしたり、親の世代とは全然違った生き方を模索したりということもない。ピダハンの若者は現にとても働き者で、生産的な部分ではじつによくピダハンの社会に順応している(優れた漁師であったり、村全体の安全を守ったり、食べ物を調達するなど、社会全体の生存に寄与している)。ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答えはもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。

 もちろんこのように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞しがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして難題を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。しかしもし自分の人生を脅かすものが(知るかぎりにおいては)何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、わたしが村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「お前がここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」当時もいまも、これがピダハンの考え方だ。人生は素晴らしい。ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの社会ができあがっている。この考え方に異を唱えるのは容易ではない。(ダニエル・L・エヴェレット 屋代通子訳 みすず書房 pp.142-143)

 作者である伝道師のエヴェレットは、言語習得(聖書翻訳)とキリスト教伝道のためにピダハンのもとで30年もの期間を過ごします。そして、結局のところピダハンを神の教えへと導くことができずに(キリスト教的な価値観においては、現世よりも死後(天国)が重視されます。これは現世に満足しているピダハンとは相容れないでしょう)、それどころか彼自身がピダハンに魅せられ棄教へと至ることとなるのです。

 

2 マレーシア プナン族-『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 

狩猟民族のプナンの日常は、まさに「生きるために食べる」だけで構成されています。「彼らは、森の中に食べ物を探すことに一日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。彼らにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない」(奥野克巳 亜紀書房p.16)。

プナンでは獲物は神経質までに均等に配分されます。彼らにとっては個人所有という概念はなく、あるものは総て「みんなのもの」です。だからこそ、誰かの所有物を受け取ることはないので「ありがとう」とお礼を言うこともありません。そして食料といった物質のみならず、目的(プナンにおいては「生きるために食べる」こと)といった抽象的な事柄も、彼らは共有しています。それ故に(日本ならば明らかに個人に原因が帰せられるような)失敗が生じた場合にも、特定の個人の責任を負わせることにはなりません。「ごめんなさい」という謝罪が発せられることも、謝罪が求められることもないのです。著者は、反省をすることない(悪いと思うこともなさそうに思える)プナンの姿に、当初は居心地の悪さを感じます。しかし次第に、「なぜ反省しないのか」という問い自体がおかしいのかもしれないと思うようになるのです。「実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない」(p.50)と。反省をして「よりよき未来の到来のために今生きる」という私たち現在人の在り方に対して、プナンではシンプルに「今を生きる」だけなのです。そこには「反省」の入り込む余地はありません。プナンには自殺や鬱などの精神疾患が(少なくとも著者の見聞の限りにおいては)ないそうです。

 

3. アマゾン ヤノマミ族-『ヤノマミ』

 

〈ボリバ、ボリバ、ボリバ〉

三回であれば三か月後か三か月前のはずだった。ただ、僕たちには、それが過去のことを言っているのか、未来のことを言っているのか、最後まで分からなかった。

彼らの言葉を訳してみると、今日の狩りから、数年前に死んだ両親の話、そして天地創造の神々の話までが、時制を自由に行ったり来たりしながら語られていた。今日の獲物の話をしたすぐ後で、大地や川や生き物を創造した神についての話が続き、次に自分が子どもの時の思い出話といった具合に、何の脈絡もなく時間軸が移り変わるのだ。彼らは昨日のことを一万年前のように話し、太古の伝説を昨日の出来事のように語った。(国分拓 NHK出版 p.31)

 

 私たちにとっての「一万年前」は、言うまでもなく「遥か昔の時代」であり、通常「自分自身を形成する時」とリンクして考えることはしません。「私たちの時」はどんなに長く見積もっても、計測可能な100年程でしょう。それに対して、ヤノマミの人たちは自分たちの時が、ほとんど「悠久の時」に等しい。私たちにとっては、自分の命の有無(存在しているか、存在していないか)が「私の時」を限界づけています。ヤノマミにとっては、自分の存在の有無を超えて「自分の時」があります。

 「悠久の時」がほとんど「自分の時」と重なる、そんな時間概念に生きることは、私たちとどれほど異なることでしょう。どうして「私たちの時」はこれほどまでに限定されているのか、と更なる問いを立てることができるかもしれません。

【このテーマをどう読み解くのか?】

「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」というテーマについて当日は自由に考え、自由に討論してもらいます。

哲学は最初に書いてあるように私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問うことから始まります。

答えはありません。ぜひみんなで話し合う中で子育てのヒントをそれぞれが見つけてくださいね!

「学び」の意味について-私たちは何のために学ぶの?2020.9.8哲学カフェのテーマ

「学び」の意味について-私たちは何のために学ぶの?

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

  • はじめに

まず「哲学」について。哲学は他の学問のように、ひとつの問いに対してひとつの正しい答えがあるわけではありません。客観的に正しい答えに自分の考えをすり合わせるのではなく、自分が納得できる答えに出会うことを求める―これが哲学の醍醐味です。ですから答えは人の数だけあるとも言えるし、自分のものだとしても明日には今日とはまた異なる答えに出会うこともあるとも言えます。

 今日のテーマは、「学び」の意味についてです。「どうして勉強するの」という子どもの素朴な問いに対して、常識的には「大人になって困らないため」という答えが用意されています。親であり大人である私たちも、この答えを当たり前のように踏襲し、その上で「どうやって子どもを学ばせるか」ということを熱心に追及しています。

 「大人になって困らない」というのは、まあ確かにそうかもしれません。だけどそれだけじゃないかもしれないし、全く別の答えが見つかるかもしれない。その気持ちを胸に、先達たちの言葉に耳を傾けてみましょう。

2. 自分の経験できないことを学ぶ―他者理解のための学び

三砂ちづる『身体知 身体が教えてくれること』より(p.66 バジリコ出版)

 私が「いいお産、いいお産」と言っていると、「そういう経験をできなかった人はどうするのか」とよく言われるのです。できない人はしょうがないですよ。人生は何でもいちばんいい、と思うとおりにはならない。しょうがないからそこをまわりが受けとめてまわりが支えていけばいいのです。できない人がいるからといって、本来のお産はこういう経験だということを言わなくていいということではない。お産はこういう経験だということを、お母さんも赤ちゃんも男の人もみんなわかっていい。いまは医療としての出産しかみていないから、ほんとうの生まれる意味がわからなくなってきている。本当のお産がこんなにすばらしいと言うと、「できない人やできなかった人がかわいそうだからやめてくれ」と反応するのは、方向が逆だと思いますね。(略)

 人間は経験したからといって、すべてわかるものではない。言葉から想像して他人の経験を共有するために「勉強」というものをしているのでしょう。自分が経験していないからわからない、ということではないと思う。経験がすべて、ではないですよ。

3.私はどうしてこの「私」なのか―自己理解のための学び

内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために』より(pp.104-105 角川文庫)

空間的に自分が「どこにいるか」ということは比較的簡単に分かります。しかし、時間の流れの中のどこに自分はいるのか、ということは、「勉強」しないと分かりません。(略)

ぼくはよく「マッピング」ということばを使います。

「マッピング」というのは「地図上のどの点に自分がいるかを特定すること」という意味です。地図の中のどこに自分がいるかということは、「今・ここ・私」を中心にしている限り、絶対に分かりません。当然ですけど。

 だって、そうでしょ。「地図を見る」というのは、とりあえず、「今・ここ・自分」をかっこに入れて、そこから想像的に遊離して、上空に仮設した「鳥の眼」から見下ろす、ということなんですから。

 想像的に視点を自分から離脱させてみる。視座をどんどん遠方にずらせば、遠方から「自分を含んだ風景」を見ることができる。自分自身を含んだ大きな風景を、都市を、大陸を、地球を、想像できる。高度を上げられる人ほど自分の空間的な位置取りについて、より多くの情報を手に入れることができます。

これが空間的なマッピングです。時間の流れの中のマッピングも原理的には同じことです。

自分がどんなふうに形成されてきたのかを見る、ということです。

自分の家庭や会社や共同体。その網目のどこに自分がいて、どのような機能を果たしているのか。どういう要素の複合効果として自分は出現してきたのか。条件がどういうふうに変われば自分は「消え去る」のか。そういうことを考えるのが「時間的マッピング」です。

自分の「前史」を見通すということですね。

4.自分の存在の意味を見出すための学び

   大江健三郎『「自分の木」の下で』より(pp.15-16 朝日文庫)

私は自分でもおかしく感じるほど、ゆっくりした小さな声を出してたずねました。

―お母さん、僕は死ぬのだろうか?

―私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。

―お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできないといわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。

母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。

―もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。

―……けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?

―いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。

私はなんだかよくわからないと思ってはいました。それでも本当に静かな心になって眠ることができました。そして翌朝から回復していったのです。とてもゆっくりとでしたが。冬の初めには、自分から進んで学校に行くことにもなりました。

教室で勉強しながら、また運動場で野球をしながら―それが戦争が終わってから盛んになったスポーツでした―、私はいつのまにかボンヤリして、ひとり考えていることがありました。いまここにいる自分は、あの熱を出して苦しんでいた子供が死んだ後、お母さんにもう一度産んでもらった、新しい子供じゃないだろうか?あの死んだ子供が見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、以前からの記憶のように感じているのじゃないだろうか?そして僕は、その死んだ子供が使っていた言葉を受けついで、このように考えたり、話したりしているのじゃないだろうか?

この教室や運動場にいる子供たちは、みんな、大人になることができないで死んだ子供たちの、見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、その子供たちのかわりに生きているのじゃないだろうか?その証拠に、僕たちは、みんな同じ言葉を受けついで話している。

そして僕らはみんな、その言葉をしっかり自分のものにするために、学校へ来ているのじゃないか?国語だけじゃなく、理科も算数も、体操ですらも、死んだ子供らの言葉を受けつぐために必要なのだと思う!ひとりで森のなかに入り、植物図鑑と目の前の樹木を照らしあわせているだけでは、死んだ子供のかわりに、その子供と同じ、新しい子供になることはできない。だから、僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ……

【このテーマをどう読み解くのか?】

「学び」というと学校の勉強とイメージする人は多いと思います。でも人生において学ぶとは…?これは深いテーマですが子育て中のお母さんお父さんがもう一度考えるテーマではないかと思います。

安定的な大企業のサラリーマンや公務員が今の若者たちにとって一番人気の職種ですが、10年後には7割の仕事がなくなるともいわれています。だから広義の発想で学びについて考えるというのも大事なのだと思います。

子ども時代に何を学ぶべきなのか?学ぶというのは子ども時代だけのものなのか?

創造力をはたらかせ、楽しく人生を生きるコツを学びましょう(^^)/