森のようちえんたんぽぽの根っこの4月~6月の募集は定員に達したため、締切りました。次は9月~12月分の募集を6月頃に開始します。9月からは開催日を増やすことも検討しています。9月からの参加希望者を把握するために、希望される方は早めに問合せフォーム又はLineアカウントよりお知らせいただくと助かります。
愛媛県の森のようちえんの紹介
愛媛県で森のようちえんを開催しているのは「NPO法人新居浜森のようちえん」、「西条森のようちえん」、西予市の森のようちえん「一般社団法人ノヤマカンパニー」、瀬戸内しまなみの森のようちえん「今治島のようちえん自主保育にじっこ」と私たち「たんぽぽの根っこ」の5団体を現在把握しています。
この中で週5の預かり型として認可外保育施設として運営しているのが新居浜森のようちえんです。他の団体は定期的に開催していたり、親子型だったり、自主保育だったりというさまざまな形で活動しています。
昨年の12月に由良野の森にて合同で音楽会を実施、団体同士が顔を合わせ、思いを共有しました。自然の中でのびのびと子どもを育てることのできる森にようちえんのニーズは広がっています。関わる多くの人が県外からの移住者だったり、Uターンした家族だったりします。地域創生が叫ばれる中、島根、鳥取などでは移住促進のために森のようちえんに予算がついていたりします。
いつも森で遊びこんでいる子どもたちは動きがアクティブで遊びの発想が豊かです。「めんどい」とか「つかれた」とか「何で遊んだらいい」とか「ゲームしたい」などという言葉は聞くことがありません。とにかく仲間と共に日が暮れるのも、お腹がすくのも忘れて遊び込みます。転んで足が痛くても、寒空の中凍えそうな時でも真剣に遊んでいます。
そんな生き生きとした子どもたちを街中ではほとんど見ることがありません。そのことに疑問を持たない人が多いのかもしれませんが、本来子どもにとって「遊び」は生きることそのもので、子どもの成長には欠かすことのできない活動だと思っています。
そんな森のようちえんの活動が愛媛県下にもっともっと広がっていくことを願っています。

【参加者募集】「森のようちえん みきゃんっ子」(令和3年4月~6月開催分)
未就学児と保護者が一緒に自然の中で活動し、火育&食育を行う「森のようちえん みきゃんっ子」を令和3年4月6日(火)から毎週火曜日に開催致します。《主催:(公財)愛媛県スポーツ振興事業団(愛媛県総合運動公園指定管理者)協力:NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場》
対象は、未就学児とその家族で、参加料は未就学児1人1,000円(きょうだい参加の場合は1人につきプラス700円)+昼食代300円×人数分(1歳以上)です。
参加には事前にお申込みが必要です。申込開始は4月開催分が令和3年3月22日(月)13:00~となっております。各月申込開始日時がございますのでご注意ください。
たくさんのご参加お待ち致しております。
※新型コロナウイルス感染症予防・拡大防止のため、内容を変更・中止する場合がございます。
≪申込先≫
愛媛県総合運動公園 振興課
住所 〒791-1136松山市上野町乙46
℡ 089-963-2216
fax 089-963-4104
mail info@eco-spo.com



ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
1.はじめに
感情(passion)とは、ラテン語の‛patior’に由来します。‛patior’とは、研究社羅和辞典によると「苦しむ、受ける、耐える、許す」という意味です。つまり、「私はある感情に襲われた」という表現がいみじくも示しているように、感情に対して人間は引き受けることしかできません。私は嬉しい気持ちになりたいから、意志でもって「嬉しい気持ちになることを選ぶ」なんてできない。悦びだって哀しみだって、ただ私にやってくる。私はその感情を拒む権利をそもそも持ち合わせていないと言えます。人間は感情に対して、どこまでも受け身的であらざるをえない存在なのです。
だとするならば、どんな種類の感情を抱いたとしても、そのこと自体は善でも悪でもありません。何らかの問題が生じるとしたら、その感情の帰結となる「振る舞い」だと言うことができるでしょう。たとえネガティブな感情を抱いたとしても(ネガティブな感情が心に湧き上がってきたとしても)そのこと自体を否定することなく、その帰結としての振る舞いに着目する。「振る舞い」ならば(場合によって容易にいかないことはあるにしても)、意志によって変更することはある程度可能ではないでしょうか。あるいは、たとえ変更できなかったとしても、異なる環境に身を置くことによってその「振る舞い」の意味するところを変えることはできそうです。
今回は、ネガティブな感情から引き起こされる「振る舞い」の可能性について考えていきたいと思います。ネガティブな感情とは、細かく見ていくと際限がありませんが、大まかには「自分や他者を傷つけたり、破壊したいと思う気持ち」へと集約されるのではないかと思われます。
2.大江健三郎『「新しい人」の方へ』 朝日文庫 95-98
ただ意地悪な気持に動かされて、人を批評してしまうのは、子供のやる―大人でもやりますが―いちばん良くないことのひとつです。
子供の私にも、家族や友達や村の通りで出会うだけの人や、さらに犬や猫にたいして、意地悪な気持になることはよくあったものです。それも相手に理由があってというのではなく、自分のなかに「意地悪のエネルギー」が湧き起こって、抑えられない結果でした。
子供が、つい意地悪なことをやってしまうのは、まあ、仕方のないことでしょう。いまいったとおり、「意地悪のエネルギー」が働きだして、それに動かされているのですから。
そのように意地悪なことをしてしまった後で、自分が意地悪だった、と気が付かないことはまずありません。自分がやったことを、胸のなかのブラウン管に映し出されるような思いがします。しかも、「意地悪のエネルギー」は、いったん使ってしまった以上、弱くなっています。つまり、反省することは難しくありません。反省の仕方としては、自分がいったりしたりした意地悪なことをよく思い出した上で、―こんなことは、なにも生み出さない!とつくづく思うだけでいいのです。
その反対に悪い態度は、自分が意地悪をしたのは、相手にこちらの意地悪さをさそうところがあったからだ、と考えることです。相手のヴィルネラビリティー※のせいにすることです。
(略)
福沢諭吉は、人間とはどういうものなのか、ということをよく知っている人でした。そして、人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、良いところはなにもないのが、「怨望(えんぼう)」だといっています。たとえば、乱暴な素質の人には―福沢は、粗暴と呼んでいますが―、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい―福沢の言葉では、怜悧(れいり)―というのです。
しかし、怨望という素質だけは―人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが―、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。
いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです。
私は、子供の世界で、「怨望」に近い素質が、意地悪さじゃないか、と思っています。
怨望イクォール意地悪さ、というのじゃありません。怨望から大人のやることが、子供のやってしまう意地悪に近い、ということです。あなたに意地悪をいったりしたりすることを続ける人がいれば、
―よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない、と自分にいえばいいのです。
そして、自分としては、人に意地悪なことをいったりしたりはしないことにしよう、という原則をたてればいいのです。「意地悪なエネルギー」はなにも生み出しません。子供の私は「生産的でない」という言葉を本で読み、気に入って、こういう場合に使っていました。
※ヴィルネラビリティー・・・可傷性.傷つきやすさ.弱さ.フランスのユダヤ系哲学者E.レヴィナスの用語.バルネラビリティーともいう
3.河合隼雄 村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 新潮文庫 167-170
河合
そのひとにとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういう形で生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。
人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山にいくよりしかたないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。
河合 殺すことによって癒される人
これは大変重い話題です。しかし、心理療法をしている限り決して避けて通ることはできません。「殺す」という場合、自分自身を殺す、つまり自殺も含めて考えるべきと思います。他殺あるいは自殺によってのみ癒される人は存在するのか、ということです。
そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては―オプティミスティクすぎると言われそうですが―そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。
夢の中で自殺や他殺を「体験」する人がいます。そのときの深い感動などに接すると、「殺すことによって癒す」体験をこの人はしたのだなと思います。わたしはクライエントの夢の中で何度も死んでいます―実際はしぶとく生きていますが―。「殺す」ことの象徴的実現に向けて、わたしの容量の可能な限り、「殺すことによってのみ癒される人」と立ち向かっていると思う時もあります。
あるいは、文学作品の中の自殺や他殺もこのような意味を持つときもあるのではないでしょうか。
私はあるクライエントが治療関係が終わってから、「河合先生に会った最大の不幸は自殺できなくなったことだ」と言われるのを聞いたことがあります。これはなかなか微妙な表現ですが、「自殺によって癒される人」が、私に会ったために敢て「癒されない」人生を選ぶことによって、この世に生きながらえることにされた、とも受けとることができます。この言葉はずっと私の心の中に残っていて、折にふれて自分の心理療法の在り方について反省する景気を与えてくれています。
ともかく、人間の「死」ということに関する限り、一般論はできない、と私は思っています。
※オプティミスティク・・・楽天主義の、楽観的な
4.小松美彦『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 現代書館245-246
「尊厳」とは立ち現れる共鳴関係のことである
ここで話を中村有里ちゃんに戻します。「有里は生きる姿を変えただけなんです」という言葉で、お母さんは、どんな状態になっても「いる」ことが大事なのだと訴えたかったのでしょう。ただし、その言葉と語りには豊かな構造があります。すなわち、有里が生れ落ち、脳死状態となり、闘病生活を続けてきた、こうした一連の過去が現在の立脚点になっており、その現在は未来へと開かれたものになっている。そして、開かれた先には「いない」が待っている。「しばらくの間いない」のではなく、「永遠にいない」日がやがては到来する。お母さんはこのすべてを引き受けて、かの言葉を発したといってよいでしょう。いつ訪れるかわからない「いない」を含み込んだ「いる」であることを、お母さんは覚悟していたのだと思います。
この意味で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語ったその瞬間に、お母さんと有里ちゃんとの間に立ち現れた共鳴関係、それが《人間の尊厳》なのです。
そうすると、《人間の尊厳》とは、大それたことではありません。「ただいること」をめぐって生起する当たり前のことです。本書ではあえて分析的に論じましたが、本当は誰しもが日常生活のなかで感じてきたはずのことなのです。メーテルリンク作『青い鳥』のチルチルとミチルは、夢のなかで幸せ(本当に青い鳥)を求めて旅立ち、探しあぐねて夢から覚めると、幸せとは最も身近でささやかな日常(もともと飼っていたただの青い鳥)であったことがわかります。《人間の尊厳》も、これと同じでしょう―それゆえに私は、「「人間の尊厳」などという概念はなくてもよいと思っています」と先述したのです。
そうでもあるにもかかわらず、私たち人間は、〝本当に青い″「人間の尊厳」を探し求め、「理性」、「知性」、「精神」、「生きようとする意志」、「自己意識」等々として、みつけたつもりになってきました。そしてその結果、「もう二度とこんなことを繰り返してはならない」事態を引き起こし、今もなお引き起こしつづけています。脳死者、植物状態や終末期の患者、人工呼吸器や人工透析器や胃瘻によって生かされている人々……、この者たちは「人間の尊厳」を損なっている、だから尊厳のある死を、と。
しかしながら、これまで述べてきたように、《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》の要素が損なわれているのは、逆説的にも、脳死者たちではなく、脳死者等々には「人間の尊厳が損なわれている」と考える人々のほうなのです。そしてそうだとすると、この人々が《人間の尊厳》に出会うことは、チルチルとミチルのように普通の「幸せ」に気づくことは永遠にないでしょう。「このままでは」とは、「脳死者たちを対象化しているかぎり」と言い換えてもよいでしょう。そもそも対象化とは、眼前の者たちの固有性を受け入れて己が一体化することを、拒絶する姿勢に他ならないからです。
【自分自身の悩みを紐解くヒントとして…】
子育ても、夫婦関係も、仕事においても悩みは尽きないものですが、そんな悩みを違う観点から考えてみるという時間も大切なように思います。
わが子の発達段階が他の子と比べて遅かったり、早すぎたり、乱暴だったり、おとなしかったり・・・普通という枠から外れることが不安につながり、ネガティブ思考へとシフトする傾向にありますが、それはどうしてなのか?
普通が良いことなのか?なぜ不安なのか?親としてどうとらえていくことが良いことなのか?
毎回答えはないけど、各々が自分の今の悩みと向き合いながらゆっくりと考える時間にしたいと思います。
みきゃんっ子は引き続き4月からも開催します!!
2021年4月~6月も引き続き森のようちえんみきゃんっ子は火曜日に開催します。申込開始は3月17日以降になる予定ですのでもうしばらくお待ちください。決まりましたらHPとLineアカウントにてお知らせします。
意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
1. はじめに
私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。
とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。
2.『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 小松美彦 現代書館
pp.357-358
(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。
日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。
とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。
3.『亜由未が教えてくれたこと〝障害を生きる〟妹と家族の8800日』 坂川裕野 NHK出版
- 181-182
一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。
母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。
お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。
いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。
「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」
何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。
4.『「待つ」ということ』 鷲田清一 角川選書
- 61-63
(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。
ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。
息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。
母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。
私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
1.はじめに
私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。
違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。
また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。
今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。
2.『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』 松沢哲郎 岩波書店
はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。
(略)
アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。
サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。
はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。
これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。
はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)
3.『「キモさ」の解剖室』 春日武彦 イースト・プレス
少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。
でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)
4.『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹 編 犀の教室
この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。
勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。
教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)
わかってしまうとコミュニケーションは終わる
誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。
ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。
人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。
でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。
そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。
読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)
2020年の森のようちえん
今年も多くの方のご参加、ご支援ありがとうございました。
2020年が明け、日常の活動がストップしてしまった春。季節の中で外遊び場が一番心地良い時期に自粛しなければならない葛藤を感じたのは誰もが同じ気持ちだったと思います。
しかし、そうした中でもいつもなら見落としがちな自然に目を向け、些細な事にも喜びを感じ、当たり前だと思っていた事柄がこんなにも字のごとく『有り難い』と気づけたことも多かったように感じます。
子どもたちの成長は待ったなしの現実。大人が思っている以上に、あっという間に独り立ちしていきます。だからこそ、小さな手をつないでくれている間にたくさんの方の愛が触れ合いが子どもの思いを受け止める環境が大きな役割を担っているんだとこんなご時世だからこそ感じずにはいられません。
秋に再開した親子型「みきゃんっ子」、今年も開催はわずかでしたが松山のいいところ再発見できた「風の子」、新たな活動の預かり型「たんぽぽの根っこ」どの活動も私たちスタッフにとっても大切な場所です。
たくさんの保護者の方と出逢い、多くの子どもたちの成長をこんなにも間近に感じ、一緒に悩んで、一緒に感じて、一緒に喜びあえる。今年も多くのいろんな感情と共に「今」を生きている瞬間瞬間に出逢えたことに深く感謝申し上げます。
子育てに正解はきっとありません。きっと「楽」な道もありません。でも、きっと「楽しめる」ヒントはたくさん、子どもたちから発信してくれています。
大地に生きる命の根っこをしっかりとはればきっと大丈夫。子どもたちの世界は輝いている。
2021年も皆さんがしあわせな年になりますように♪



森のようちえん風の子in坂本屋
12月20日
松山市のあちこちいいところをご紹介しながら、子どもたちと遊ぶ
森のようちえん風の子
今日は、一年の締めくくりに
昨年にもおじゃまさせていただき、
今年度の冊子にも掲載させていただいた
「旧へんろ宿 坂本屋」で
おもちつきを開催させていただきました。
コロナ禍の中、私たちスタッフも何度も何度も話し合いを重ね、
集落のご高齢の方への安全も考慮しながらも地元の保存会の方、周辺の方のご理解があって、
例年通りとはいきませんが、
しっかり対策を行いながら無事に開催することができました。
前日、準備とご挨拶に伺ったその中で、
「子どもたちが来てくれるんは嬉しいわい」「本当なら、手伝ってあげたらええのにな~」「うちの駐車場あけとくけん、使ってな~」
と、地元の周辺の方たちからたくさんの温かいお言葉を頂戴致しました。
昨年は、
保存会の方々との直接の交流もありましたが、今年は楽しい時間の裏で子どもたちみんなを見守ってくださっているこうした多くの優しい眼差しがあることを、この場をお借りしてご報告、お礼申し上げます。
子どもたち、そして私たち大人がほっとできる場、
みんなが笑いあえる場、
心から自然と笑みがこぼれる場。
今日の坂本屋で
「さむ~い」と季節を肌で感じ、
おいしいものを「おいしい~」と食べ、自然の中でのびのびと「楽しい~」と言えた時間は何よりのぜいたくかもしれません♪
こんな時代だからこそ、私たち
松山冒険遊び場としてできることがあります。
今年もたくさんの出会いとご縁をありがとうございました。
子育てにつらいときには、皆さんには私たちがいます。仲間がいます。
子育てに楽しい時にも、私たちはいます。こんなにも一緒に喜んでくれる仲間がいます。
子どもの「今」はあっという間。
「今」を生きる子どもたち。
今年もたくさんの場所で
たくさんの自然と共に
たくさんの笑顔をありがとう✨





「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
1.はじめに
「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。
「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。
他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。
2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より
(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。
学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。
1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。
2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。
3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。
4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。
講談社現代新書p.p.114-116
3.「他者との共存」
哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。
国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。
オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)
人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。
むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。
国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。
文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。
『AERA』2020年10月12日号
ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。
4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より
これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。
人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。
晶文社 pp.109-110
【このテーマをどう読み解くのか?】
「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。
理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。
自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。
他者との関わり方・・・
他者とは・・・
他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。
見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。