6/8(火)哲学カフェやります(^^)/

愛媛県総合運動公園で毎月第2火曜日に開催している「森のようちえんみきゃんっ子」内にて哲学カフェ開催します。

★今回のテーマは ~「言葉」で伝えられるもの~

今の子どもたちはコミュニケーション能力をとても求められていますが、そもそもコミュニケーションを行うために私たちが使っている言葉にはどんな可能性があるのか?使い方は?

知ってるようで知らないことが大人の私でもまだまだたくさんあるように思います。

そんな「言葉」で伝えられるもの をじっくり考えてみませんか?

6/8(火)に行う哲学カフェの原稿は下記に貼り付けておきますのでお時間ある方は是非じっくり読んでみてくださいね(^^)/

1.はじめに

 コミュニケーションとは、デジタル大辞泉によると「社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる」と説明されます。この「言語・文字・身振り」の中でも、わたしたちが他者とのコミュニケーションをとる際に多く用いる手段が言語での「語り合い」でしょう。

 実際わたしたちは、意識することすらなく日常的に他者と言語を介してコミュニケーションをとっています。その際に、言葉を交わすことによって「意志や感情、思考」が伝達されています。そこで伝達されている「意志や感情、思考」と「語られている言葉」とはどのような関係にあるのでしょうか。今回は、私が口にしている言葉であなたに(あるいは、あなたが語る言葉で私に)、何が伝えられているのかということについて考えていきたいと思います。

 

 まず第一に、言葉の意味をそのままに「意志や感情、思考」を伝えることができます。例えば「嫌い」という言葉を用いて「嫌い」という感情を表現する場合。第二に、「語られている言葉」の意味を隠れ蓑として何か別のものを示す場合。「嫌い」という言葉で、その奥にある「本当は好き」という気持ちを伝えることすらできるのです。そして第三として、「語られている言葉」の意味を越えて、「私たちは今語り合っている」という事実を確認している場合。「嫌い」―「私も嫌い」という語り合いにおいて、伝達されているのは「お互いに嫌悪感を抱いているという情報」ではなく、「私たちは言葉を交わす程の関係にある」という両者の関係性の確認だと言うことができるでしょう。

 

 もちろんこのようにすっきりと区分することはできず、大概の場合、「語り」とは上で挙げられたタイプが入り混じり構成されることがほとんどです。とはいうものの、同じ一つの言葉で多様なことを伝達することができることには間違いありません。この事実から、人間のコミュニケーションの奥深さに感嘆することも、またその複雑さに煩わしさを感じることも、あるいは不得手さから絶望を感じることもあるかもしれません…。

2.言葉の意味をそのままに伝達する

『まったくゼロからの論理学』野矢茂樹 岩波書店 pp.2-3

 

1 命題と真偽

 「論理学」とは何かを説明するには、「演繹(えんえき)」とは何かを説明しなければなりません。そして「演繹(えんえき)」とは何かを説明するためには、その前にまず「命題」という言葉と「真偽」ということを理解してもらわなければなりません。

 次の例文を見てください。

例1

(1)東京ディズニーランドは千葉県にある。

(2)タヌキは有袋類である。

(3)窓を開けてください。

(4)きのう何食べた?

(5)マクドナルドのフィレオフィッシュはおいしい。

 

 この中で論理学が扱う文と扱わない文があります。それを区別する鍵は「真偽」ということです。

 例えば(1)は事実の通りだから「真」、(2)は事実と違います。有袋類というのは、カンガルーのようにメスのお腹に赤ちゃんを入れる袋がある動物のことです。タヌキにはありません。「偽」です。それに対して、(3)は「窓を開けてください」とお願いしているのだから真でも偽でもありません。(4)も質問なので真でも偽でもありません。

 このように、その文が事実を述べようとしたものである場合、それが事実の通りなら「」と言い、事実の通りではないならば「」と言います。そして、真偽が言える文のことを「命題」と呼びます。

 すると(1)と(2)は命題ですが、(3)と(4)は命題でないということになります。(略)

 

3.言葉の意味の奥にあるものを伝達する

3-1.『「聴く」ことの力―臨床哲学試論』 鷲田清一 TBSブリタニカ

 

 この本のなかでカウンセリングの本質を明かすために、中川米造が『医療のクリニック』で引いているターミナルケアをめぐるアンケートが取り上げられています。

 

「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」という患者の言葉に対して、あなたならどう答えますか。

  1. 「そんなこと言わないで、もっと頑張りなさいよ」と励ます。
  2. 「そんなこと心配しなくていいんですよ」と答える。
  3. 「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
  4. 「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
  5. 「もうだめなんだ…とそんな気がするんですね」と返す。

                                    (p.10)

 

 これはあくまで医療従事者へと向けられたアンケートなので、正解があるわけではありません。個人のキャラクターによって言葉の選択は異なるでしょうし、立場によっても違いがあるでしょう。精神科医以外の医者や医学生は⑴を選ぶことが多く、看護師や看護学生は⑶を選ぶことが多いそうです。そして精神科医やカウンセラーは⑸を選ぶようです。⑴~⑷までと⑸とは明らかな違いがあります。⑴~⑷は、患者から向けられた言葉とは違う言葉を返しています(「もうだめ」→「がんばれ」とか、「もうだめ」→「どうしてそう思うの」とかいう風に)。つまりそこでは会話のキャッチボールが行われていると言うこともできるでしょう。それに対して⑸は、患者の言葉をそのままにただなぞっているだけです。「もうだめ」という患者の言葉に対して、「もうだめなんだ……とそんな気がするんですね」と。そこで患者は、励まされたり、同情を示されたり、新たな情報を与えられているわけではありません。キャッチボールの例を挙げるまでもなく、患者はただ「自分の言葉がきちんと受け取られた」ということを実感することのみです。しかしながら、この「受け止められた」という感覚を抱くことにより、患者は自分の発した言葉の奥にあるものへと眼差しを向ける勇気をえるのです(これがカウンセリングを受けるメリットのひとつでしょう)。

 

3-2.『看護のための生命倫理』 小林亜津子 ナカニシヤ出版 pp.18-19

  (第一章 安楽死より)

 

「苦痛」よりも「孤独」

 苦痛の緩和と並んで、患者の「よき死」を援助するために決定的な要素が、患者の精神的な面でのケアである。「死」の過程にある患者を積極的安楽死へと向かわせる直接の動機は、多くの場合、肉体的苦痛ではなく、「人生に対する絶望感、寂しさや孤独など」であるともいわれる(Schara, Joachim/Beck, Lutwin “Sterbehilfe” S.446)。

「アスピリンのような単純な苦痛対策と並んで、向精神薬の使用や、薬効の持続性の高いモルヒネ」をうまく利用さえすれば、「重度の永続的な苦痛であっても……少なくとも患者が耐えられる程度に痛みを抑えることは、ほぼ可能になってきている」(ibid.,S446)。

 オランダやアメリカ・オレゴン州など、安楽死や自殺幇助が合法的に実施されている国や地域で行われた最近の調査結果は、この筆者の主張を裏づけているように思われる。例えば、ある調査によると、末期の肉体的苦痛が患者の「安楽死」要請の原因となるのは、実際にはきわめてまれであるらしい(「時の話題」欧日ホームページ)。同調査によれば、適切な緩和ケアを受け、患者の心情面でのケアも行われてさえいれば、末期のがん患者が「安楽死」を望むことはまずないそうである。「安楽死」を要請する患者にとって、腫瘍による肉体的苦痛やそのような苦痛に襲われることに対する不安感などは、副次的な理由でしかない。患者が「安楽死」を選択する原因は別にある。その動機の多くは、「孤独、経済問題、伴侶との離別等」(同上)。その場合、肉親や医師らによる「無言の圧力」が作用することもあるという。すなわち、彼らが、患者が「安楽死」を希望するのを無言で待っているという雰囲気だけでも、患者に決定的な影響を与え得るのである。

 患者に「安楽死」を希望させる最大の原因は、孤独感ないし疎外感であるという事実が示しているのは、「安楽死」を要請する末期患者が真に求めているのは、必ずしも「死」という「エグジット(出口)」に限られるのではなく、時として患者の精神面での適切な援助、ないし情緒的なケアが必要になることもあるということだろう。

4.「語り合っている」という事実の確認のための伝達

『弱いロボット』 岡田美智男 医学書院

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 ひとつの発話は、先行して繰り出された相手の発話を支えるというグランディングの役割と、相手からの支えを予定しつつ言葉を投げかけるという役割の二つを同時に備えている。この発話に備わる双方向の機能によって、「相手を支えつつ、同時に相手に支えられるべき関係」を形作る。(略)

 これはトーキング・アイを使って生成を試みてきた、他愛のない雑談にも当てはまるようだ。不定なまま繰り出されたなにげない発話は、相手からの応答を得て、意味や価値を与えられる。その相手からの応答は、先の発話を支えると同時に、こちらからの支えを予定して繰り出されたものだ。

 他者とのつながりを求めて不定なまま発話を繰り出すのか、そもそも、私たちの発話や行為は本源的に不定さを伴うものだから他者とつながろうとするのかはわからない。しかしいずれにせよ、相手からの応答責任を上手に引き出しながら、その「場」を一緒に生み出す。何かを相手に伝えるというより、「今、ここ」を共有する。他愛もないおしゃべりには、そういう側面もある。

 

87-89

ピングーはなぜ会話ができるのか

(略)

「ピーピー」という発話を一つひとつ切り取って聞いても意味はよくわからないが、それをピングーたちのアニメーションの中に置いてみると、意味が自然に立ち現れてくる。

「ピーピー」という発話は、その相方であるピンガの驚いたような表情によって意味が与えられる。一方でピンガの驚いたような表情は、それに先行するピングーの「ピーピー」という発話によって、意味づけられる。お互いの発話や表情を相互に構成し合っている。そうした関係が原初的な会話の場を成り立たせているのだ。

 これは電車のなかでの女性中高生の他愛もないおしゃべり、その発話の断片を耳にするときに感じる心地よさにもよく似ている。電車の中の雑音によって一つひとつの発話の意味がかき消されてしまうと、私たちの関係はなにげない発話に対するグラウンディングの行く末に移る。そうして、ほどよい「賭けと受け」の拮抗したカップリングに安心感を覚える。私たちは「何を伝えようとしているのか」ではなく、お互いは「どのようにつながっているのか」にそもそも関心があるのだ。

6月8日より「森のようちえんみきゃんっ子」は再開します。

6月8日より「森のようちえんみきゃんっ子」は再開します。(6/8,6/15,6/22,6/29分)
申込は愛媛県総合運動公園までお願いします。

未就学児と保護者が一緒に自然の中で活動する「森のようちえん みきゃんっ子」を毎週火曜日に開催しています。《主催:(公財)愛媛県スポーツ振興事業団(愛媛県総合運動公園指定管理者)協力:NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場》

 対象は、未就学児とその家族で、参加料は未就学児1人1,000円(きょうだい参加の場合は1人につきプラス700円)+昼食代300円×人数分(1歳以上)です。

自然の中で五感をフルに使ってのびのびと遊ぶことで好奇心を湧き立たせ、コミュニケーション力を育て、語彙を増やし、体力や精神力も育まれます。コロナの影響で室内で過ごすことが増えた子どもたちにのびのびと自然中で過ごす機会をもっと増やしていきたいと思います。

皆様の参加、お待ちしております(^^)!

※新型コロナウイルス感染症予防・拡大防止のため、内容を変更・中止する場合がございます。

≪申込先≫
愛媛県総合運動公園 振興課
住所 〒791-1136松山市上野町乙46
℡   089-963-2216
fax  089-963-4104
mail  info@eco-spo.com

~6/1も追加します。~森のようちえんin坪内家の募集について

4月と5月に開催していた親子型森のようちえんin坪内家ですが、6/1(火)も引き続き募集中ですので希望される方は下記HPよりお申込みください。

乳幼児期に大切な自然や人との関わりを大切にしながら活動は進めていきます。

広い古民家とその周辺の自然を利用して少人数での開催を想定しております。

感染対策もしながらゆっくりした時間の中、子どもも大人もストレスから少しの時間かもしれませんが心を開放してほしいとスタッフ一同願っております。

~5/25も追加します。~5月の森のようちえんin坪内家の募集について

5月の親子型森のようちえんは砥部町の坪内家で開催しています。5/18(火)と5/25(火)も引き続き募集中ですので希望される方は下記HPよりお申込みください。

5/11(火)はお弁当持参で活動を行いましたが、少人数でソーシャルディスタンスも取りながらの食事が可能なことから5/18(火)と5/25(火)は羽釜でご飯を炊いてお味噌汁を作ります。

乳幼児期に大切な自然や人との関わりを大切にしながら活動は進めていきます。

広い古民家とその周辺の自然を利用して少人数での開催を想定しております。

感染対策もしながらゆっくりした時間の中、子どもも大人もストレスから少しの時間かもしれませんが心を開放してほしいとスタッフ一同願っております。

5月の森のようちえんin坪内家の募集について

5月の親子型森のようちえんは砥部町の坪内家で開催しています。5/11(火)と5/18(火)はご飯は作らずにお弁当持参となります。未就学児1人1,000円で、兄弟参加の場合は1人につきプラス700円となります。

乳幼児期に大切な自然や人との関わりを大切に、感染対策もしながらゆっくりした時間を楽しんでいます。

広い古民家とその周辺の自然を利用して少人数での開催を考えています。興味のある方は是非参加お待ちしております。

森のようちえんみきゃんっ子5月からの募集開始は4/5からです。

森のようちえんみきゃんっ子の5月分からの申し込みを4月5日(月)13:00~より受け付けしています。

ただし、県内の新型コロナウイルス感染の拡大の状況によっては、実施できない場合もありますので予めご了承ください。中止・変更となる場合は愛媛県総合運動公園のホームページ及び当団体のHPでもお知らせ致します。

森のようちえんたんぽぽの根っこの4月~6月は定員に達したため締切りました。

森のようちえんたんぽぽの根っこの4月~6月の募集は定員に達したため、締切りました。次は9月~12月分の募集を6月頃に開始します。9月からは開催日を増やすことも検討しています。9月からの参加希望者を把握するために、希望される方は早めに問合せフォーム又はLineアカウントよりお知らせいただくと助かります。

愛媛県の森のようちえんの紹介

愛媛県で森のようちえんを開催しているのは「NPO法人新居浜森のようちえん」「西条森のようちえん」、西予市の森のようちえん「一般社団法人ノヤマカンパニー」、瀬戸内しまなみの森のようちえん「今治島のようちえん自主保育にじっこ」と私たち「たんぽぽの根っこ」の5団体を現在把握しています。

この中で週5の預かり型として認可外保育施設として運営しているのが新居浜森のようちえんです。他の団体は定期的に開催していたり、親子型だったり、自主保育だったりというさまざまな形で活動しています。

昨年の12月に由良野の森にて合同で音楽会を実施、団体同士が顔を合わせ、思いを共有しました。自然の中でのびのびと子どもを育てることのできる森にようちえんのニーズは広がっています。関わる多くの人が県外からの移住者だったり、Uターンした家族だったりします。地域創生が叫ばれる中、島根、鳥取などでは移住促進のために森のようちえんに予算がついていたりします。

いつも森で遊びこんでいる子どもたちは動きがアクティブで遊びの発想が豊かです。「めんどい」とか「つかれた」とか「何で遊んだらいい」とか「ゲームしたい」などという言葉は聞くことがありません。とにかく仲間と共に日が暮れるのも、お腹がすくのも忘れて遊び込みます。転んで足が痛くても、寒空の中凍えそうな時でも真剣に遊んでいます。

そんな生き生きとした子どもたちを街中ではほとんど見ることがありません。そのことに疑問を持たない人が多いのかもしれませんが、本来子どもにとって「遊び」は生きることそのもので、子どもの成長には欠かすことのできない活動だと思っています。

そんな森のようちえんの活動が愛媛県下にもっともっと広がっていくことを願っています。

【参加者募集】「森のようちえん みきゃんっ子」(令和3年4月~6月開催分)

未就学児と保護者が一緒に自然の中で活動し、火育&食育を行う「森のようちえん みきゃんっ子」を令和3年4月6日(火)から毎週火曜日に開催致します。《主催:(公財)愛媛県スポーツ振興事業団(愛媛県総合運動公園指定管理者)協力:NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場》

 対象は、未就学児とその家族で、参加料は未就学児1人1,000円(きょうだい参加の場合は1人につきプラス700円)+昼食代300円×人数分(1歳以上)です。

 参加には事前にお申込みが必要です。申込開始は4月開催分が令和3年3月22日(月)13:00~となっております。各月申込開始日時がございますのでご注意ください。

 たくさんのご参加お待ち致しております。

※新型コロナウイルス感染症予防・拡大防止のため、内容を変更・中止する場合がございます。

≪申込先≫
愛媛県総合運動公園 振興課
住所 〒791-1136松山市上野町乙46
℡   089-963-2216
fax  089-963-4104
mail  info@eco-spo.com

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 感情(passion)とは、ラテン語の‛patior’に由来します。‛patior’とは、研究社羅和辞典によると「苦しむ、受ける、耐える、許す」という意味です。つまり、「私はある感情に襲われた」という表現がいみじくも示しているように、感情に対して人間は引き受けることしかできません。私は嬉しい気持ちになりたいから、意志でもって「嬉しい気持ちになることを選ぶ」なんてできない。悦びだって哀しみだって、ただ私にやってくる。私はその感情を拒む権利をそもそも持ち合わせていないと言えます。人間は感情に対して、どこまでも受け身的であらざるをえない存在なのです。

 だとするならば、どんな種類の感情を抱いたとしても、そのこと自体は善でも悪でもありません。何らかの問題が生じるとしたら、その感情の帰結となる「振る舞い」だと言うことができるでしょう。たとえネガティブな感情を抱いたとしても(ネガティブな感情が心に湧き上がってきたとしても)そのこと自体を否定することなく、その帰結としての振る舞いに着目する。「振る舞い」ならば(場合によって容易にいかないことはあるにしても)、意志によって変更することはある程度可能ではないでしょうか。あるいは、たとえ変更できなかったとしても、異なる環境に身を置くことによってその「振る舞い」の意味するところを変えることはできそうです。

 今回は、ネガティブな感情から引き起こされる「振る舞い」の可能性について考えていきたいと思います。ネガティブな感情とは、細かく見ていくと際限がありませんが、大まかには「自分や他者を傷つけたり、破壊したいと思う気持ち」へと集約されるのではないかと思われます。

2.大江健三郎『「新しい人」の方へ』 朝日文庫 95-98

 ただ意地悪な気持に動かされて、人を批評してしまうのは、子供のやる―大人でもやりますが―いちばん良くないことのひとつです。

 子供の私にも、家族や友達や村の通りで出会うだけの人や、さらに犬や猫にたいして、意地悪な気持になることはよくあったものです。それも相手に理由があってというのではなく、自分のなかに「意地悪のエネルギー」が湧き起こって、抑えられない結果でした。

 子供が、つい意地悪なことをやってしまうのは、まあ、仕方のないことでしょう。いまいったとおり、「意地悪のエネルギー」が働きだして、それに動かされているのですから。

 そのように意地悪なことをしてしまった後で、自分が意地悪だった、と気が付かないことはまずありません。自分がやったことを、胸のなかのブラウン管に映し出されるような思いがします。しかも、「意地悪のエネルギー」は、いったん使ってしまった以上、弱くなっています。つまり、反省することは難しくありません。反省の仕方としては、自分がいったりしたりした意地悪なことをよく思い出した上で、―こんなことは、なにも生み出さない!とつくづく思うだけでいいのです。

 その反対に悪い態度は、自分が意地悪をしたのは、相手にこちらの意地悪さをさそうところがあったからだ、と考えることです。相手のヴィルネラビリティー※のせいにすることです。

 (略)

 福沢諭吉は、人間とはどういうものなのか、ということをよく知っている人でした。そして、人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、良いところはなにもないのが、「怨望(えんぼう)」だといっています。たとえば、乱暴な素質の人には―福沢は、粗暴と呼んでいますが―、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい―福沢の言葉では、怜悧(れいり)―というのです。

 しかし、怨望という素質だけは―人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが―、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。

 いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです。

 私は、子供の世界で、「怨望」に近い素質が、意地悪さじゃないか、と思っています。

 怨望イクォール意地悪さ、というのじゃありません。怨望から大人のやることが、子供のやってしまう意地悪に近い、ということです。あなたに意地悪をいったりしたりすることを続ける人がいれば、

―よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない、と自分にいえばいいのです。

 そして、自分としては、人に意地悪なことをいったりしたりはしないことにしよう、という原則をたてればいいのです。「意地悪なエネルギー」はなにも生み出しません。子供の私は「生産的でない」という言葉を本で読み、気に入って、こういう場合に使っていました。

※ヴィルネラビリティー・・・可傷性.傷つきやすさ.弱さ.フランスのユダヤ系哲学者E.レヴィナスの用語.バルネラビリティーともいう

3.河合隼雄 村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 新潮文庫 167-170

河合

 そのひとにとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういう形で生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。

 人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山にいくよりしかたないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。

 

河合 殺すことによって癒される人

 これは大変重い話題です。しかし、心理療法をしている限り決して避けて通ることはできません。「殺す」という場合、自分自身を殺す、つまり自殺も含めて考えるべきと思います。他殺あるいは自殺によってのみ癒される人は存在するのか、ということです。

 そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては―オプティミスティクすぎると言われそうですが―そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。

 夢の中で自殺や他殺を「体験」する人がいます。そのときの深い感動などに接すると、「殺すことによって癒す」体験をこの人はしたのだなと思います。わたしはクライエントの夢の中で何度も死んでいます―実際はしぶとく生きていますが―。「殺す」ことの象徴的実現に向けて、わたしの容量の可能な限り、「殺すことによってのみ癒される人」と立ち向かっていると思う時もあります。

 あるいは、文学作品の中の自殺や他殺もこのような意味を持つときもあるのではないでしょうか。

 私はあるクライエントが治療関係が終わってから、「河合先生に会った最大の不幸は自殺できなくなったことだ」と言われるのを聞いたことがあります。これはなかなか微妙な表現ですが、「自殺によって癒される人」が、私に会ったために敢て「癒されない」人生を選ぶことによって、この世に生きながらえることにされた、とも受けとることができます。この言葉はずっと私の心の中に残っていて、折にふれて自分の心理療法の在り方について反省する景気を与えてくれています。

 ともかく、人間の「死」ということに関する限り、一般論はできない、と私は思っています。

※オプティミスティク・・・楽天主義の、楽観的な

4.小松美彦『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 現代書館245-246

「尊厳」とは立ち現れる共鳴関係のことである

 ここで話を中村有里ちゃんに戻します。「有里は生きる姿を変えただけなんです」という言葉で、お母さんは、どんな状態になっても「いる」ことが大事なのだと訴えたかったのでしょう。ただし、その言葉と語りには豊かな構造があります。すなわち、有里が生れ落ち、脳死状態となり、闘病生活を続けてきた、こうした一連の過去が現在の立脚点になっており、その現在は未来へと開かれたものになっている。そして、開かれた先には「いない」が待っている。「しばらくの間いない」のではなく、「永遠にいない」日がやがては到来する。お母さんはこのすべてを引き受けて、かの言葉を発したといってよいでしょう。いつ訪れるかわからない「いない」を含み込んだ「いる」であることを、お母さんは覚悟していたのだと思います。

 この意味で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語ったその瞬間に、お母さんと有里ちゃんとの間に立ち現れた共鳴関係、それが《人間の尊厳》なのです。

 そうすると、《人間の尊厳》とは、大それたことではありません。「ただいること」をめぐって生起する当たり前のことです。本書ではあえて分析的に論じましたが、本当は誰しもが日常生活のなかで感じてきたはずのことなのです。メーテルリンク作『青い鳥』のチルチルとミチルは、夢のなかで幸せ(本当に青い鳥)を求めて旅立ち、探しあぐねて夢から覚めると、幸せとは最も身近でささやかな日常(もともと飼っていたただの青い鳥)であったことがわかります。《人間の尊厳》も、これと同じでしょう―それゆえに私は、「「人間の尊厳」などという概念はなくてもよいと思っています」と先述したのです。

 そうでもあるにもかかわらず、私たち人間は、〝本当に青い″「人間の尊厳」を探し求め、「理性」、「知性」、「精神」、「生きようとする意志」、「自己意識」等々として、みつけたつもりになってきました。そしてその結果、「もう二度とこんなことを繰り返してはならない」事態を引き起こし、今もなお引き起こしつづけています。脳死者、植物状態や終末期の患者、人工呼吸器や人工透析器や胃瘻によって生かされている人々……、この者たちは「人間の尊厳」を損なっている、だから尊厳のある死を、と。

 しかしながら、これまで述べてきたように、《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》の要素が損なわれているのは、逆説的にも、脳死者たちではなく、脳死者等々には「人間の尊厳が損なわれている」と考える人々のほうなのです。そしてそうだとすると、この人々が《人間の尊厳》に出会うことは、チルチルとミチルのように普通の「幸せ」に気づくことは永遠にないでしょう。「このままでは」とは、「脳死者たちを対象化しているかぎり」と言い換えてもよいでしょう。そもそも対象化とは、眼前の者たちの固有性を受け入れて己が一体化することを、拒絶する姿勢に他ならないからです。

【自分自身の悩みを紐解くヒントとして…】

子育ても、夫婦関係も、仕事においても悩みは尽きないものですが、そんな悩みを違う観点から考えてみるという時間も大切なように思います。

わが子の発達段階が他の子と比べて遅かったり、早すぎたり、乱暴だったり、おとなしかったり・・・普通という枠から外れることが不安につながり、ネガティブ思考へとシフトする傾向にありますが、それはどうしてなのか?

普通が良いことなのか?なぜ不安なのか?親としてどうとらえていくことが良いことなのか?

毎回答えはないけど、各々が自分の今の悩みと向き合いながらゆっくりと考える時間にしたいと思います。