たくさんのご支援ありがとうございました💖

「子どもたちの居場所をもっともっと松山に増やしたい」という想いで初のクラウドファンディングにチャレンジしました(^^)/

おかげさまで、126人の方から1,388,335円のご支援をいただきました!

2022年度から松山市内で、子どもが歩いて行ける距離にある子どもの居場所(遊び場)を必ず実現していきます!

NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場の山本(よっしー)です。

今年はコロナの影響で保護者からは「どこにも行けない」「子どもと二人で夏の間過ごしていた」などのお声をいただき、感染対策をしながらの活動をスタッフとも話し合いながら必死で進めてきました。

子どもにとって「遊び」は生きることそのもの。ご飯を食べるのと同じぐらい大切な活動だと考えています。

家の中で動画をみたりゲームをする子どもが増える中、リアルな人間同士の関りや自然の中で思いっきり遊ぶことは子どもの成長過程では欠かすことのできない活動だと思っています。

来年は森のようちえん、フリースクール、自然体験を引き続き実施しながら、地域の子どもたちが自分の足で遊びに行けるプレーパークを再び始めていきます。

来年もどうかご支援よろしくお願いします。

【参加者募集】森のようちえんたんぽぽの根っこ

昨年の10月より預かり型の森のようちえんたんぽぽの根っこを毎週金曜日に開催していましたが、参加希望者が増えてきたので2022年1月~3月分は毎週水曜日と金曜日に開催することとしました。週1回でもOKで、両日参加も可能です。

今のところ金曜日は定員に達していますが、水曜日はまだ募集中です。興味のある方はぜひ下記HPよりお問い合わせください。

南海放送でみきゃんっ子のことが紹介されます!

毎週日曜日20:54から放送されている愛媛県政広報番組「みきゃん&友近のつながれえひめ」に12/14の森のようちえんみきゃん子の様子が放送されます。放送日は来年1月16日(日)の南海放送の「世界の果てまでイッテQ」の後です。

森のようちえんの様子を知りたい方はぜひ見てくださいね(^^)/
https://www.rnb.co.jp/tv/tsunagare-ehime/

森のようちえんみきゃんっ子の2週目の火曜日に毎月「哲学カフェ」やってます(^^♪

毎週火曜日、愛媛県総合運動公園のキャンプ場で「森のようちえんみきゃんっ子」を開催させてもらっています。

毎回、季節ごとに変化する森を散策し、お昼は薪から火をおこしご飯を作りみんなでいただいています。

寒い日は寒いなりに子どもは風を楽しみ、落ち葉を楽しみます。子どもの感性が開花する幼少期に毎週森に出かけていくことは子どもの成長にとても有効であると考えています。

そんな森のようちえんの第2週目に松山短期大学非常勤講師の山本希さんに来ていただいて「哲学カフェ」を開催しています。

12月14日(火)のテーマは「集うことの意義」です。コロナ禍の影響で子どもたちは室内で過ごすことが増え、私たち大人もzoom会議など、リアルで会うということが減り、人と人が出会うコミュニケーションの場はどんどん少なくなっているように思います。

そんな時代だからこそ考えるテーマではないかと思います。

答えは一人ひとりがゆっくりと考える中から多種多様に生まれます。人に左右されるのではなく、自分で考えることがまず大事ではないかと思っています。

12月14日はまだ定員に達していませんので希望する方は申込お待ちしております。申込は愛媛県総合運動公園振興課 ℡089-963-2216 又はinfo@eco-spo.comまでお願いします。

「集うこと」の意義・・・2021.12.14哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

コロナも落ち着きをみせ、自粛生活から解放されつつあります。コロナ禍においては、「リモート」だとか「オンライン」だとかが推奨され、私たちは他者と物理的な距離を保つことが推奨されてきました。他者と物理的な距離をとることによって、対人的なストレスから解消された人もいるでしょう。あるいは、他者と切り離され生み出された余白を自分自身と向き合う時間にすることで、今まで敢えて目を向けることもなかった事柄に対峙する機会となった人もいるでしょう。その状況がまた元に戻る方向へと舵が切られているようです。もちろん基本的には喜ばしい。だけども億劫でもある…。

 改めてここで、他者と共に場に集うことの意義について考えてみませんか。そうすることで、他者と共にいることの心地よさ、あるいは違和感、一人でいることの快や不安について思いを馳せるきっかけになるのではないかと思います。

2.村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』

pp.10-11 青土社

自分の生活も他の人との出会いも、さまざまに異なるリズムが折り重なったものであろう。たとえば人との付き合いのなかで、相性の良し悪しや、波長が合うことや行き違いはつねにあるが、それはリズムが合う合わないということでもある。多くの日本語の慣用句もリズムと関わり、たとえば「馬が合う」「拍子抜け」といったものが思い浮かぶ。「息が合う」「一息入れる」「息が詰まる」というように、「息」にまつわる表現は、対人関係や生活のリズムと関わることが多い。リズムを論じた中井正一(1900-1952)は、「間が合う、間がはずれる、間が抜ける、間がのびる」ことに注目した(中井1981/1995 108)。あるいは自分のリズムと、社会から要請されるテンポが合わなくて、日常がうまく過ごせないということもある。気ばかり焦るが体が一向に動かないというときも、自分のなかでリズムがずれている。つまり他の人とのあいだでも自分のなかでも、リズムがぎくしゃくすることがある。言い換えると、リズムは単数ではない。リズムは複数の線が絡み合ったポリリズムとして生じる。

 たとえば、最近私はある小学校の授業を見学する機会があった。生活困難な家庭や、外国籍の子供が多数所属する学校で、普通級のなかに特別支援の配慮を必要とする子どもも数人いるクラスである(つまりクラスの背景にある状況もまたポリリズムである)。「いちばん大変なクラス」と紹介されて初めて見学した時には大きな混乱のなかにあった。そもそも校舎の玄関をくぐったところで「授業中なのに廊下で競走をしている子がいるな」と思って二人の生徒を見ていたら、実はそのクラスの生徒だったのだ。国語の授業のはずだったが、三人の子どもが教室から出たり入ったり、あるいは床に寝ころんでいた。他の子どもも騒々しく、担任からの質問に答える声が雑談でかき消される状態だった。このようなときにはそれぞれの子どもがもつリズムがばらばらであり、クラス全体としてはカオスあるいは文字通りのノイズとなる。

 ところが一カ月後に訪れてみると、前回立ち歩いていた子どもたちも机に向かい、一生懸命作業をしていた(図工の時間だった)。先日廊下で走っていた二人も不器用なのでイライラしながらであったがそれでもクラスの流れと無関係の行動を取るわけではなかった。校長先生に理由をたずねてみると、一カ月のあいだ、担任と副担任が丁寧にその子たちにつきそって語りを聴き取ってきたことが大きいようだった。図工のクラスは比較的自由で、全員が思い思いに工作を進めながらときどき周りの友だちと集まって話しているが、前回とは異なり、状況が把握できないカオスではない。二、三人が集まって自由な会話がメンバーを変えつつ行われても、クラス全体が一つのメロディーを変奏しながら奏でているように、工作をするというテーマは保たれていた。授業が終わるころには、多くの子どもの課題が完成していた。さまざまなリズムが変化しながらも統一されたクラスの流れを作る。ばらばらになることもあれば、調和することもある運動がポリリズムである。

3.寮美千子『あふれでたのはやさしさだった』

pp.211-213 西日本出版社

人は人の輪の中で育つ

「社会涵養プログラム」の授業は高い効果をあげた。なぜだろうか。

(略)

 既成概念や知識といった世間の物差しを当てて評価するのではなく、そこにある詩を、あるがままに受け取ることこそが大事なことなのだろう。教室の仲間たちは、すなおでまっすぐな感想を述べてくれた。最初からそれができていた。なぜそうだったのか。

 彼らには、気の利いたことをいう知識も機知もなかったのかもしれない。相手を計るべき持ち合わせの定規がなかったのかしれない。でも、だからこそGくんは、深く癒されたのだろう。裸の心でつながりあうことのできる教室だったから。

(略)

 もう一つ思いあたったのは一対一ではなかったということ。教誨師と受刑者は、常に一対一だ。その僧侶は、実に思いやり深い方で、誰に対しても腰が低く、常に受刑者と同じ目線で話そうと努力なさっていらした。そんなやさしいお坊さんでさえ、受刑者から見れば、どうしても自分とはかけ離れた存在に見えてしまう。その距離感があってこそできる教育がある。宗教は魂を深く救ってくれる。教室とは役割が違うのだと思った。

 社会性涵養の教室にいたのは、自分たちと同じ境遇の仲間たちだった。だから、安心して自己開示し自己表現できた。表現すること自体が、一つの癒しになる。そこには、受けとめてくれる仲間がいる。それが、さらに深い癒しをもたらしたに違いない。

 グループだからこそ、一対一とは違う大きなうねりが生まれ、互いに交感しあい、連鎖反応を起こし、次から次に心の扉を開けたのだろう。すると、心の内に埋もれていたやさしさが、堰を切って流れだす。そのやさしさが、互いの心をまた癒していく。「人は人の輪のなかで育つ」ということ、「場の力・座の力」を実感した。グループ・ワークならではのダイナミズムだ。

 

4.堤未果『デジタル・ファシズム』

pp.249-252 NHK出版新書

教科書のない学校

 タブレットがないと、自分の頭で考えなければならない、という小学生の女の子の言葉を聞いた時、不思議な気持ちになった。

 私の母校である和光小学校には、タブレットどころか教科書自体がないからだ。

 知識を入れるためでなく、考えるための教材を先生が自分で探してきて、それをプリントしたものが配られる。毎回授業のたびに数ページ配られる紙を自分で二つに折って、授業の最後にファイルに綴じてゆくので、一学期が終わる頃には一冊の教科書ができあがる。授業中に思いついたことの走り書きや計算式、その時流行っていたアニメのイラストが描いてあり、あちこちに折り目がついた、世界に一つしかない、自分だけの教科書だ。

 プリントは毎回、その授業で進む分しか配られないため、当日にならないと内容がわからない。国語の授業で使われる物語は、その日のページ分だけで先の展開が読めないので、皆で登場人物の気もちや動機を一生懸命考えながら授業が進んでいく。結末を知らない分、創造力がどこまでも広がり、毎回どんな意見が飛び出すか、議論がどこに向かうか予測できない楽しさがあった。

 この学校の授業には、二つの特徴がある。

 ひとつは「すぐに答えを教えてくれないこと」。

 例えば、ある日理科の授業で先生がこんな問いを出した。

 「パイナップルは、どこになっているでしょう?」

 私はその時率先して手をあげ、自信満々で「木になっています!」と発言した。他の生徒からも「土から生えてる」「冷蔵庫」「わからない」など多数の声が上がる。先生は正解を言う代わりに、私たちにもう一度こう問いかける。

 「未果はどうして木だと思うの?」「土に生えていると思った人はなぜ?」

 答えの代わりに問いを投げられた私たちは、小さな頭をフル回転させてそれぞれの理由を皆に説明し、自分とは違う意見にも耳を傾け、丸々一時間話し合った。

 その間先生は口を挟まず、私たちが活発に議論する姿を目を細めて見ていた。

 授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、やっと先生がくれた答えを聞いた私は顔が真っ赤になったけれど、皆と話したあの時間が、とても楽しかったのを覚えている。

 もう一つの特徴は、先生が生徒の答えに〇×をつけないこと。

 正しいのか正しくないかよりも、どうやってその答えに辿り着いたかの方に関心を持ってくれるのだ。間違えても裁かれないので、私たちは思ったことを自由に口に出し、ありのままの自分でいられたように思う。その分話が終わらずに時間切れになってしまうことが多かったが、先生は気にする様子もなく、一緒に熱くなっていた。

 中でも一番重宝されるのが、途中でついていけなくなってしまい、答えが出せなかった生徒だった。彼らは時に「はてなさん」などと妙な名前で呼ばれ、それぞれどこでわからなくなったのかを言わされる。そこからクラスの皆で一緒に考え、疑問を口に出しながら、ゆっくりと一緒に答えを見つけてゆく。どんな意見を口にしても、先生は一旦そのまま受け入れてくれる。だが、面倒くさいからと考えるのを放棄して「〇〇ちゃんと同じです」などと発言した時だけ、先生は顔をしかめてこう言うのだ。

 「同じ、なんていう意見はないよ。未果はどう思うの?」

 授業の最中も、先生は黒板を使わずに、壁に張った大きな模造紙に生徒から出た意見をどんどんその場で書いたり、文字でなく図にしてみたり、時にはプリントを使わずに全部口頭でやってみたり、いきなり演劇から入ったり、その時その時の空気に合わせたやり方をする。

 そんなふうに先生が創意工夫して、毎回一期一会の授業を作るあの教室では、違う考えを持つクラスメイトたちの存在を同じ空間の中で受け入れることや、答えの出ないことを考える道のりに、何よりも価値が置かれていた。

 科学者と企業家たちは今、人工知能を駆使して生徒たちの間違いを見つけ出し、思考の土台を作り、激励までしてくれる個別学習プログラムを開発中だ。

 だが教師と生徒の間の絆や、教室で生まれる一体感は、果たしてそれらに置き換えられるのだろうか?

5.伊藤智樹『開かれた身体との対話 ALSと自己物語の社会学』

p.89 晃洋書房

物語と身体

 物語は言葉によって構成されますが、コミュニケーションには身振りや表情を表す私たちの「身体」も関わっています。

 たとえば病いで身体を想うように動かせなくなった人がセルフヘルプ・グループの集会に参加したとします。その人は、コミュニケーション・エイドを介して会話に参加することはできますが、一般的にそのテンポは口頭での会話よりも遅く、健常な頃と同じスピードで質疑応答をするわけにはいきません。また、人によっては、何もしゃべらずに終わることもあります。では、その人は、とりたてて意味のある言葉をその場では発しなかった、というべきでしょうか。否、その人は多くのことを語っています。その場に彼・彼女の身体があるというただそれだけの事実によって、病が進むと閉じこもって社会参加ができなくなるというイメージないし思い込みに対して端的に反証が示されています。そこでは彼・彼女の身体も、清水忠彦さんと同様に、開かれた身体といえます。彼・彼女は身体を通して他者とコミュニケートし、見る人は、その身体に何らかの物語の要素を読み込むと考えられます。

 このように考えると、物語を語る身体に着目するのが有意義なケースがある、ということがわかります。伊藤(2012b「病いの物語と身体―A・W・フランク『コミュニカティブな身体』を導きにして」『ソシオロジ』173:121-136)では、パーキンソン病等をもつ人によるサークル「リハビリジム」の営みが記述されています。そこには、多弁な人もいれば無口な人もいますが、いずれも共に「リハビリ」を行いながら病いの中を生きていこうとしています。その際、小さな改善劇を一緒に目撃したり、あるいは思いのままにならぬ身体を笑い飛ばしたりする場面が現れます。そこでは、すべてが言葉で語られるのではなく、少し大げさにしたり何度も繰り返したりする身体の動きによってやりとりが成り立っています。このように、身体は物語行為の構成要素として人々の営みの中に埋め込まれているのです。

森のようちえんたんぽぽの根っこ活動報告

2020年10月から開始した森のようちえんたんぽぽの根っこ(預かり型・毎週金曜日)も開始して1年が経ちました。

自然の中でのびのびと遊ぶ子どもたちの成長はとても目覚ましいものがあります。最初は個々で遊んでいたり、スタッフがいないと不安がっていた子どもたちも今では友達同士で助け合いながら遊んだり、転んだ時も自然と友達に「大丈夫?」と声をかける姿にいつも感動しています。

先日もモミジの赤い葉っぱを子どもたちがみんなで袋に入れて集め出したり、9月頃にはザクロの実を一粒一粒「美味しいね💖」といいながら笑顔で食べたりしていました。

かたや毎回山を走り回って遊ぶ子どもたちの群れも発生したり、水遊びに没頭する子どももいます。

物の取り合いもあるのですが、そこも自分たちで話しあいをしながら(もちろん泣いたり怒ったりもありますが・・・・)ゆっくりですが問題を解決する姿にスタッフ一同感動!!3歳でも話し合いをしながらお友達と仲良く遊ぶスキルを持っているのです!!

とかく大人はついつい心配で口を出したり指導したりしがちですが、子どもは子ども自身で育つ力があるのだと実感しています。

2022年1月~3月は金曜日にプラスして水曜日も森のようちえんたんぽぽの根っこを開催します。週に2回参加、または週1回参加のどちらかを選ぶことができます。募集開始は12月はじめを目途に情報配信しますのでもうしばらくお待ちください。

「私らしさ」ってどういうもの?・・・2021.11.9哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「個性的な人間であること」、「ナンバーワン」だったり「オンリーワン」だったりすること。私たちは、日常生活の至るところで(あるいは教育の現場で掲げられている目標として)「自分らしくあること」の獲得に心を砕いています。生まれてきてくれるだけで有り難かった我が子も、元気で育ってくれるだけでよかったはずなのに、成長するにしたがって欲が生じて「他の人とは異なる」この子にしかない「個性」を獲得させたいと思ってしまう…。もちろんそれは子を思うが故の多くの人の抱える親心でしょう。決して否定されるべきものではありません。だけれども、そもそも、どんな人間だってみんな違うのは当たり前です。誰だっておのずから個性的です。にもかからわらず、私たちの求める「個性」とは、単に他者との特異性が意味されているのではなく、「他の人と違って優れていること」が目指されているのではないでしょうか。

 今回は「私らしさ」について、自分に備わる個別性、特異性にスポットを当てて考えてみたいと思います。まず、ポジティブな意味での「私らしさ」について(②)。続いて、ネガティブな意味での「私らしさ」について(③)。最後に、「私らしさ」とは、その能力や特質に潜んでいるのではなくて、存在そのもののうちに根拠をもつということについて(④)。

 2.『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』

ライザ・マンディ みすず書房 pp.64-65

そのころすでに、教師が暗号読解への適性が高いとわかりつつあった。その理由は、高度な教育を受けたこと以外にもたくさんあった。(略)暗号読解には、読み書きの能力と計算能力、創造力、労を惜しまない細かな気配り、優れた記憶力、くじけずに推量を重ねる力が求められた。単調な骨の折れる作業に耐える力と、尽きることのないエネルギーと楽観的な心構えが必要だった。(略)

 趣味、それも芸術的な趣味をもっていれば好ましいこともわかってきた。「外の世界に向いた創造的な興味関心や趣味をもっていた者は、映画などの娯楽が好きな者と比べて、おおむねとても良い結果を出している」と文書の最後に書かれている。

 気質も重要だった。ここでもまた、学校教師の長所が物を言った。もっとも優れた暗号解読者は、「成熟し頼りになり」、「明晰で怜悧な頭脳」をもちながら、「機敏で順応性が高く、すぐに適応できて、監督されることを受け入れ」、「ワシントンの不便な生活にがまんできる若い人物」であると判明しつつあった。この要件は、ドット・ブレーデンをはじめとして、多くの学校教師にぴったりあてはまった。

3-1.村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』

青土社 pp.104-105

こうして「犯人は誰か」という謎は、当事者にとっては気づかれもしない死角であるということが明らかになる。自分の身体に縛られている私たち人間は、傍観者であろうが当事者であろうが状況の核心を見通すことができない。それだけでなく、状況からこぼれ落ちている死角があるということにすら、気づくのが難しいのだ。身体をもって存在するという条件のなかに、死角が組み込まれているのである。状況のなかの見えない部分もまた、身体の延長線上にあるのだ。死角は世界において身体から見えない部分として生まれるが、同時に身体との相関においてのみ生まれる以上、〈身体の余白〉の一部なのである。人間が身体をもつ限りにおいて、視点が生じ、死角が生じる。そしてこの死角こそが、〈その人だけが知りえないもの〉という仕方でその人の特異性を作るとすると、この特異性は身体の余白において生じるものであることになる。身体の余白は身体そのものではなく、身体をもつがゆえに見えなくなる死角であり、身体の絶対的な外部だ。〈身体の余白〉は身に見えるモノや人でもなければ、意識されるものでもなく、身体でもない。(略)〈その人だけが知りえないもの〉という〈身体の余白〉はその人の個別性を指し示す。人は自分自身でないものによって個体化するのだ。

3-2.『みんな水の中「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』

横道誠 医学書院 pp.42-43

私もあなたも、脳の多様性を生きている。脳の多様性とは、英語でいえばニューロダイバーシティ、神経多様性とも訳されるものだ。私は神経発達症群の当事者だ。それは日本での一般的な言い方をすれば発達障害者ということになる。あなたは私と同じくそうかもしれないし、そうではない「定型発達者」かもしれない。いずれにしても、脳の多様性を体現している。

 発達障害者という言い方は、本書で応援する社会モデルの考え方からすれば、不適切な表現というほかない。社会モデルは医学モデルと対をなす用語で、医学モデルが障害の発生場所を個人に見るのに対して、社会モデルはそれを環境に見る。たとえば、視覚障害者が社会からの充分な支援を受け、生きていく上でなんの困難もないと感じる環境を得られれば、その人は「眼が見えないだけの健常者」ということになる。楽器を弾けない人がいるように、特定の食べ物を食べられない人がいるように、そもそも人間が自力で空を飛べなくても、それだけでは決して致命的ではないように、眼が見えないだけなのだ。

 この考え方に立つならば、発達障害者も、環境との不一致を起こしているからこそ「障害者」になっているだけだと言える。村上直人は定型発達者と発達障害者の関係をWindowsとMacの違いにたとえ、前者にできて後者にできないことがあっても、それは欠如や障害ではないと述べている。まったく同感だ。

 

4.存在の二つの意味-「本質存在」と「現実存在」

存在とは「ある(在る)」で言い表されている事柄です。この「ある」ですが、二つの様態に分かつことができます。

 

・「本質存在」 「事物が…である」こと

・「現実存在」 「事物がある」こと

 

例えば、ペットボトルとは「ポリエチレンテレフタラート製の容器である」ということは、ペットボトルがペットボトルであるために必ず備えていなければならない性質です。これが伝統的にヨーロッパ哲学では「本質(存在)」と呼ばれています。それに対して、その本質が定まったとしても、実際に現実に存在する(「現実存在」)か否かについては別次元の問題だということができます。例えば「かぐや姫」や「鬼」などの想像上の人物や架空の生き物について、私たちはその本質(それがなに「である」か)は理解しているけれども、それらは現実に存在(「がある」)しているとは言えません。

(『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』 貫成人pp.13-15を山本により要約)             

 

本質存在とは「私は…である」という在り方のことであり、その「…」で表されている私の内実は、無限とは言えないとしても幾通りもの仕方で語ることができ、またそれを失ったとしても別のあり方をすることが可能です。つまりそれは、他者と取り替え可能な(私である必然性はない)レベルでの存在の仕方だと言うことができるでしょう。それに対して、「私が在る」という現実存在は、それを失ってしまったならば私であることがなくなるような、まさに唯一無二の、他者と取り替え不可能な在り方なのです。

初めてクラウドファンディングにチャレンジします!

2019年度に不登校が理由で小中学校を30日以上欠席した児童生徒は18万1272人で、過去最多を更新しました。増加は7年連続で、約10万人が90日以上欠席しています。

愛媛県でもコロナ禍の中、不登校になる子どもたちが増えています。愛媛県教育委員会によると令和元年1月時点の愛媛県の不登校生徒数は1352人に対し、令和2年1月時点の不登校生徒数は1617人となり、265人増えています。(不登校生の人数は月3分の1以上欠席したものの内、学校が不登校と判断したものの数です。)

そのため私たちが運営しているフリースクールたんぽぽの綿毛への相談件数も増えており、フリースクールを希望する子どもたちが増えています。

2020年における総自殺者数は2万1,077人(暫定値)。男性は前年よりも26人減少した1万4,052人、逆に女性は2019年から934人増加し7,025人と2年ぶりに増加に転じました。若年層に至っては、小学生が15人、中学生が145人、高校生338人の合計498人に上り、1978年の統計開始以来最多だった1986年の401人を超えています。

親も子どもも助けを求める場所が減り、助けてほしいと訴えることができる仲間が減っているのではないでしょうか。

私たちは活動当初からプレーパーク活動を実施してきました。地域にあって、いつでも安心して来ることができる子どもの居場所(遊び場)、そして保護者も安心していられる居場所が今本当に求められていると思っています。

そんな居場所を松山で作ります。作りたいです!!

だからどうかご支援よろしくお願いしますm(__)m!! 

NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場 代表 山本良子(よっしー)

「コロナ禍の今、見えるもの、考えること」…2021.10.12哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 「コロナ禍」という言葉が私たちの日常に入り込み、もう二度目の秋を迎えています。外出する際にマスクは、スマホ、財布、鍵と並ぶ必需品となりました。コロナ禍において日常は刷新され、私たちは「ニューノーマル」という「新たな常識」を迎え入れないといけない、ということになっているようです。マスクや消毒や人との距離について常に意識しなければならなくなり、たかだか三年前のマスクなしの日常風景にすでに違和感を抱くほどです。しかしながら、このような時だからこそ(あえて言うならば「異常時」だからこそ)見えてくる事柄、そしてそこから考えるに値するような事柄に出会うこともあるのではないでしょうか。

 今日は「コロナ禍」をキーワードに拾ってきた文章をもとに、みなさんと一緒におしゃべりに興じることができたらいいなと思っています。

 以下、引用です。テーマはもちろん「コロナ禍」ですが、敢えて副題を示すとしたら次のようになります。

 

2→「コロナ禍」で見えてきたもの

3→極限状態でのポジティブな人間のあり方

4→リスク受容における人間の認知のくせ 

2.『アルベール・カミュ ペスト 果てしなき不条理との闘い』中条省平                            NHK出版 pp.126-128

 実際、コロナ禍のさなかでこの小説を読み直してみると、その鋭い予見性に心の底から感嘆させられます。

 現代社会は経済を第一原理として動いています。経済とは、金銭の循環、物資の流通、人間の移動と交流にほかなりませんから、そうした物と人の移動がことごとくウイルスの感染の促進に直結してしまう今回の事態は、経済活動の不可能性という無理難題を私たちの社会に突きつけてきました。『ペスト』で疫病に襲われたアフリカの植民地の町オランと同様に、日本を含めて全世界が、経済活動の停止あるいは最小限化に向かわざるをえませんでした。

『ペスト』の冒頭近くにはこう書いてあります。

「ここの市民たちは一生懸命働くが、それはつねに金を儲けるためだ」

 私たちもまた経済至上主義の社会に生きて、そのことに疑いをもたなかったのですが、コロナ禍のもとで、この経済偏重の生き方を否応なく反省させられることになりました。

 コロナ禍の初期段階で、「経済活動を制限してはいけない。そんなことをすれば、多くの人々がコロナが蔓延する前に経済の停滞で死んでしまう」といった経済活動を何より優先する言説が多く聞かれました。経済的に困窮した人を救うことは、コロナ禍のなかであろうと平常時であろうと政府の仕事です。そうではなく、経済の停滞がすぐに人々の死(自殺)を招くような過熱し切迫した経済のあり方こそ改善されるべきだという反省が、何よりも必要なのです。

3.『無人島に生きる十六人』「四つの決まり」「心の土台」より  須川邦彦 新潮社

「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。

 一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。

 二つ、できない相談をいわないこと。

 三つ、規則正しい生活をすること。

 四つ、愉快な生活を心がけること。

 さしあたって、この四つを、かたくまもろう。

(略)

水浴びがすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。

私は、じぶんの決心をうちあけていった。

「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んでいったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規則のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私たちは、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」

運転士は、いった。

「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」

漁業長は、

「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」

いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。

「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落とさないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」

4.『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』中谷内一也                           ちくまプリマ―新書 pp.60-61

問4 新型コロナ禍では、時間短縮を余儀なくされながら、感染防止に配慮しつつ、営業を継続している飲食店も多くありました。さて、あるサラリーマン(仮名:武内氏)がいます。彼は、「友人と誘い合わせて居酒屋で飲み会をする」のと、「上司の命令により同じ居酒屋で取引先を接待する」のとでは、どちらを感染リスクが高いと感じるでしょうか。実際にどちらの感染リスクが高いかではなく、武内氏がどちらをより高いと感じるかを考えてみてください。

 

おそらく、彼は自分が望んで居酒屋で過ごす場合はリスクは大したことはないと解釈し、他人に強いられて過ごす場合は、リスクは大きなものと感じることが、後に詳述するリスク認知モデルから予測されます。つまり、リスクを負う状況に至る自発性がリスク認知に影響するというわけです。もちろん、ウイルスは武内氏が望んでそこにいるのか、嫌々そこにいるのかを関知するものではありませんし、感染力が変わるわけではありません。つまり、客観的なリスクは同じであっても、自発性という要素がリスクへの「認知」を変えるということです。

 

コロナ禍の日常がもうすぐ2年になろうとしています。今回の哲学カフェではこの状況下をどう捉えるのか?・・・それぞれが考える機会になればと思っています。子どもとの向き合い方に悩んだり、イライラする自分の対処法など・・・個々に悩みは尽きないと思いますが、森のようちえんみきゃんっ子が「まずはホッとできる居場所」であればと願っています(^^)。

【参加者募集中】10月、11月のみきゃんっ子

10月に入り、
風はそよそよと秋めいてきましたが、まだまだ残暑厳しいですね。

外遊びにとても気持ちのいい秋✨

毎週火曜日のみきゃんっ子も再開となり、10月、11月の参加募集です(*^▽^*)

今のところ11/23(祝・火)以外は申し込み可能です。
※10/12と11/9は哲学カフェも開催します。

季節の移ろいをお子様とご一緒に肌で感じながら(*^▽^*)
いろんなお話しませんか?(*^▽^*)

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