2020年の森のようちえん 

今年も多くの方のご参加、ご支援ありがとうございました。

2020年が明け、日常の活動がストップしてしまった春。季節の中で外遊び場が一番心地良い時期に自粛しなければならない葛藤を感じたのは誰もが同じ気持ちだったと思います。

しかし、そうした中でもいつもなら見落としがちな自然に目を向け、些細な事にも喜びを感じ、当たり前だと思っていた事柄がこんなにも字のごとく『有り難い』と気づけたことも多かったように感じます。

子どもたちの成長は待ったなしの現実。大人が思っている以上に、あっという間に独り立ちしていきます。だからこそ、小さな手をつないでくれている間にたくさんの方の愛が触れ合いが子どもの思いを受け止める環境が大きな役割を担っているんだとこんなご時世だからこそ感じずにはいられません。

秋に再開した親子型「みきゃんっ子」、今年も開催はわずかでしたが松山のいいところ再発見できた「風の子」、新たな活動の預かり型「たんぽぽの根っこ」どの活動も私たちスタッフにとっても大切な場所です。

たくさんの保護者の方と出逢い、多くの子どもたちの成長をこんなにも間近に感じ、一緒に悩んで、一緒に感じて、一緒に喜びあえる。今年も多くのいろんな感情と共に「今」を生きている瞬間瞬間に出逢えたことに深く感謝申し上げます。

子育てに正解はきっとありません。きっと「楽」な道もありません。でも、きっと「楽しめる」ヒントはたくさん、子どもたちから発信してくれています。

大地に生きる命の根っこをしっかりとはればきっと大丈夫。子どもたちの世界は輝いている。

2021年も皆さんがしあわせな年になりますように♪

森のようちえん風の子in坂本屋

12月20日

松山市のあちこちいいところをご紹介しながら、子どもたちと遊ぶ

森のようちえん風の子

今日は、一年の締めくくりに
昨年にもおじゃまさせていただき、
今年度の冊子にも掲載させていただいた
「旧へんろ宿 坂本屋」で
おもちつきを開催させていただきました。

コロナ禍の中、私たちスタッフも何度も何度も話し合いを重ね、
集落のご高齢の方への安全も考慮しながらも地元の保存会の方、周辺の方のご理解があって、
例年通りとはいきませんが、
しっかり対策を行いながら無事に開催することができました。

前日、準備とご挨拶に伺ったその中で、
「子どもたちが来てくれるんは嬉しいわい」「本当なら、手伝ってあげたらええのにな~」「うちの駐車場あけとくけん、使ってな~」
と、地元の周辺の方たちからたくさんの温かいお言葉を頂戴致しました。

昨年は、
保存会の方々との直接の交流もありましたが、今年は楽しい時間の裏で子どもたちみんなを見守ってくださっているこうした多くの優しい眼差しがあることを、この場をお借りしてご報告、お礼申し上げます。

子どもたち、そして私たち大人がほっとできる場、
みんなが笑いあえる場、
心から自然と笑みがこぼれる場。

今日の坂本屋で
「さむ~い」と季節を肌で感じ、
おいしいものを「おいしい~」と食べ、自然の中でのびのびと「楽しい~」と言えた時間は何よりのぜいたくかもしれません♪

こんな時代だからこそ、私たち
松山冒険遊び場としてできることがあります。

今年もたくさんの出会いとご縁をありがとうございました。

子育てにつらいときには、皆さんには私たちがいます。仲間がいます。
子育てに楽しい時にも、私たちはいます。こんなにも一緒に喜んでくれる仲間がいます。

子どもの「今」はあっという間。

「今」を生きる子どもたち。

今年もたくさんの場所で
たくさんの自然と共に
たくさんの笑顔をありがとう✨

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。

「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。

他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。

2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より

(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。

学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。

 

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。

講談社現代新書p.p.114-116

3.「他者との共存」

哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。

 

 国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。

 オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)

 人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。

 むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。

 国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。

 文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。

                                  『AERA』2020年10月12日号

 

ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。

4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より

 これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。

 人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。

                                 晶文社 pp.109-110

【このテーマをどう読み解くのか?】

「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。

理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。

自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。

他者との関わり方・・・

他者とは・・・

他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。

見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。

森のようちえんたんぽぽの根っこ(金)預かり型(2021.1~2021.3)締切りました。

松山市祝谷にあるみかん山をお借りして実施している「森のようちえんたんぽぽの根っこ」1月~3月の毎週金曜日(計12回)の参加者の申込を本日定員となり締切りました。

申込を希望されていた方もおられたと思うのですが申し訳ありません。今後も参加を希望する皆さんの要望をお聞きし、活動の幅を広げていきたいと思いますのでご協力よろしくお願いします。

森のようちえん根っこ(金)預かり型(2021.1~2021.3)募集開始

松山市祝谷にあるみかん山をお借りして実施している「森のようちえんたんぽぽの根っこ」1月~3月の毎週金曜日(計12回)の参加者の申込を開始しました。継続申込が多いので今回は3名まで受け付けることができます。

希望する方はお早めに申込をお願いします。

森のようちえんに興味のある方、やってみたい方対象に、「森のようちえん」を知ってほしいと思い企画しました。

コロナ禍の中、自然の中でのびのびと遊びながら子どもたちを育てたいという思いを持つお母さんお父さんはますます増えているように感じます。

都会では街に子どもの姿はなく、多くの子どもが室内でゲームやYouTubeなど一人で遊ぶことが増えてきています。学校ではマスクをして勉強をし、給食の時間も会話をすることが許されないと聞きます。尚且つ子どもの育つ環境として、屋外で仲間と群れて遊ぶ経験をすることなく過ごす子どもたちの増加。これはコロナ以前からの深刻な問題です。

そんな時代だからますます乳幼児の時ぐらいはのびのびと自然の中で過ごしてほしいと考えている人が増えているのです。

広い屋外の自然の中で3密を避け、のびのびと育つ子どもたちを応援することができる「森のようちえん」という選択。

今回は、森のようちえんに興味のある方、やってみたい方対象に、「森のようちえん」を知ってほしいと思い企画しました。午後からは松山と新居浜の有志による音楽会も実施します。お昼は羽釜でご飯を炊いて味噌汁を作ります。

≪内容≫

日時 12月12日(土)10:00~14:00(受付9:30~)
場所 由良野の森(愛媛県上浮穴郡久万高原町二名乙787-13)
参加対象者 森のようちえんに興味のある方、森のようちえんに参加を希望する親子
参加費 一人500円(2歳以上)
内容 新居浜と西条と松山の森のようちえんに参加している子どもたちがやってきます。アクティブに森で遊ぶ子どもたちを見守りながら、森のようちえんについてみんなで語り合いましょう!!
持ち物 防寒着、着替え、食器、箸、帽子、雨具、タオル、ブルーシート
※小雨決行。

団体のコロナウイルス感染症対策ガイドラインを確認して、参加希望する場合は申込フォームの「同意します。」にチェックをお願いします

≪スケジュール≫

9:30~10:00 受付
10:00~10:10 活動場所の説明、一日の流れ説明
10:10~11:30 森遊び
11:30~12:20 昼食(羽釜でご飯を炊いて、お味噌汁)
12:30~13:00 森の音楽会
13:00~14:00 森遊び 
14:00~15:00 森でゆっくり座談会(興味のある方のみ)
※帰る時間は自由です。帰る時にスタッフにお声掛けください。

遊び場通信27号できました!!

今回のテーマは「おそとであそぼ!」「子ども」にとって「遊び」は生きることそのものです。ぜひみんな季節を楽しみながらお外で遊ぼうね!!冊子は今後、松山市内の公民館や児童館などにもおいてもらう予定です。みきゃんっ子や各種イベントでも配布します。

「私がいること」「あなたがいること」―「今ここに在る」ことの不思議2020.11.10哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

  • はじめに

 少し専門的な話になりますが…、哲学では伝統的に「存在(在ること)」には二様のタイプがあるとされています。「私が…である」こと、そして「私がある」こと。(前者は「そのものの内実」が示されているので「本質存在」、後者は「そのものが現実に存在している」ことが示されているので「現実存在(実存)」と言われます。)私たちは社会的な役割や属性をうることで、数多の「…である」ことができます。「母親である」ことができたり、「教員である」ことができたり…ですね。実際私たちは、自分たちが「何である」かということに眼差しを向けがちです。自分自身の内実をできるだけ価値のあるものにしたい、というのは自然な感情でしょう。子どもたちを育てていくうえでも、その内実をなるべく豊かにしてあげたいと思うのも自然な感情だと思われます。それに対して、私たちは「私がいる(在る)」ことや「あなたがいる(在る)」ことは、あまりにも当然で当たり前に過ぎるので、日常的に考えたりすることはあまりないのではないでしょうか。

そもそも「私が…である」ことができるためには、「私がいる」こと(=現実に存在していること)が前提として必要となります。「私がいる」ことは「私が…である」ことよりも、より根源的な出来事なのです。根源的でありながらも日常的にはあまり思考することのない「私がいること」「あなたがいること」について、その不思議さに触れてみましょう。

2.「ありのままに在ること」の歓び

―アーノルド・ローベル「ひとりきり」より

(前略)

「でも がまくん。」と、かえるくんは いいました。

「ぼくは うれしいんだよ。 とても うれしいんだ。

けさ めをさますと おひさまが てっていて、いい きもちだった。

じぶんが 1ぴきの かえるだ ということが、いい きもちだった。

そして きみという ともだちが いてね、それを おもって いい きもちだった。

それで 一人きりに なりたかったんだよ。

なんで なにもかも みんな こんなに すばらしいのか

 その ことを かんがえてみたかったんだよ。」

「ああ そうだったのか。」と、がまくんは いいました。

「それなら やっぱり ひとりきりになりたいよ。」

「でも、」と、かえるくんが いいました。

「いまは きみが いてくれて うれしいよ。 さあ ごはんを たべよう。」

ふたりは ごごの あいだ ずっと しまで すごしました。

アイス・ティーなしで、 ぬれた サンドイッチを たべました。

ふたりきりで すわっている かえるくんと がまくんは、 しんゆうでした。

アーノルド・ローベル「ひとりきり」p.62-64

(『ふたりは きょうも』所収 三木卓訳 文化出版局 ミセスこどもの本)

3.「存在しない」のではなく、「存在している」ということ

―古東哲明『〈在る〉ことの不思議』より

存在の虚無性とは、神羅万象が〈在ること〉に、なにか必然的な存在理由も、しかるべき起源や目的も、原理的に欠けているということである。それはいいかえれば、〈在る〉とはつねに、「在る必然性などさらさらないのに在る」ということであり、「無くても論理的には少しもふしぎではないのに在るということである。つまり、非在こそ論理的にはむしろオリジナル、無くてあたりまえで自明で必然ですらある、にもかかわらず、現に人は生きて在り、のみならず万物が在る、ということである。

 非在こそ当然であるという論理的必然性。にもかかわらず、現になにかが〈在る〉という存在のまぎれもない事実性。この論理と事実とがつきあわされるとき、なにかが〈在り〉、この世が〈在る〉ということは、極度に「非-自明」で「稀-有」なできごとだという思いが、静かに炙りだされてこないだろうか。極度に非自明で稀有なことを、神秘的あるいは不思議(mystériux)と形容することはゆるされよう。ならば、なにかが存在するということは、たったそれだけのことで無条件に、神秘的な出来事にほかなるまい。しかも万物はいずれ非在化することを加味してみれば、在ることの不思議(存在神秘)の思いは、いっそう募るはずである。

 もしそうであれば、存在の虚無性あるいは儚さとは、存在神秘の逆証であり、その別名にほかならぬことになろう。虚無で儚い生起であればこそ、存在は神秘である。(後略)

『〈在る〉ことの不思議』古東哲明 勁草書房 pp.3-4

4.「それは信じられぬほど すばらしいこと」

「あかんぼがいる」 谷川俊太郎

いつもの新年と どこかちがうと思ったら

今年はあかんぼがいる

あかんぼがあくびする

びっくりする

あかんぼがしゃっくりする

ほとほと感心する

あかんぼは 私の子の子だから

よく考えてみると孫である

つまり私は祖父というものである

祖父というものは

もっと立派なものかと思っていたが

そうではないとわかった

あかんぼがあらぬ方を見て 眉をしかめる

へどもどする

何か落ち度があったのではないか

私に限らず おとなの世界は落ち度だらけである

ときどきあかんぼが笑ってくれると

安心する

ようし見てろ

おれだって立派なよぼよぼじいさんになってみせるぞ

あかんぼよ

お前さんは何になるのか

妖女になるのか貞女になるのか

それとも烈女になるのか天女になるのか

どれも今は はやらない

だがお前もいつかは ばあさんになる

それは信じられぬほど すばらしいこと

うそだと思ったら

ずうっと生きてってごらん

うろたえたり居直ったり

げらげら笑ったりめそめそ泣いたり

ぼんやりしたりしゃかりきになったり

【このテーマをどう読み解くのか?】

わが子が自分にとってどんな存在?

生まれた時はどんな気持ちだったかな?

母としての自分が今ココにいるということ・・・そしてわが子が今いるということ

当たり前だから、平凡な日常の中では考えないことが多いけど、あたらめて考えてみると気づきもあるのではないでしょうか。

【参加者募集】森のようちえん風の子


松山の自然を楽しみながら子どもたちと遊び込む森のようちえん風の子。今回は海に浮かぶ中島と旧へんろ宿坂本屋で開催します。中島ではミカンの収穫体験をしてから海岸で遊びたいと思います。坂本屋では餅つき体験をして子どもと一緒にもちを丸めていただきます。

参加申込は下記申込フォームからそれぞれ申込をお願いします。申込開始は10/31(土)の18:00からです。

団体のコロナウイルス感染症対策ガイドラインを確認して、参加希望する場合は申込フォームの「同意します。」にチェックをお願いします

12/6離島「中島」での活動内容と詳細

開催日時 集合 三津浜港 8:45(9:10三津浜港⇒神浦行きの船に乗船します。)
解散 三津浜港 15:32(14:10中島⇒15:32三津浜港行きの船に乗船)
開催場所 愛媛県松山市長師「姫ケ浜海水浴場」付近
活動内容 みかん狩り・海岸遊びなど
対象年齢 未就学児(先着15組程度)とその家族(保護者同伴で)
持ち物 水筒、弁当、帽子、レジャーシート、着替え、防寒着、みかんを入れる袋
参加費 子ども1人1500円(兄弟1人1000円)(1歳以上)

※船賃とバス代は別途必要となります。
申込方法 下記フォームから申込ください。 詳しい内容はイベント開催日の前にメールでお知らせします。ご不明な点があればメール又はお電話にて問合せ下さい。
≪申込&問合せ先≫
NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場
mail info@asobiba-matuyama.org
電話 080-8902-9627
主催 NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場

12/20旧へんろ宿「坂本屋」での活動内容と詳細

開催日時 10:00~13:30(受付開始 9:30)
開催場所 愛媛県松山市窪野町2146「旧へんろ宿坂本屋」
活動内容 餅つき・自然遊び
対象年齢 未就学児(先着15組程度)とその家族(保護者同伴で)
持ち物 水筒、お椀、お箸、帽子、レジャーシート、着替え、防寒着、
参加費 子ども1人1000円(兄弟1人800円)(1歳以上)

お昼ご飯はついたお餅を入れた雑煮を作ります。昼食代は大人も子どももそれぞれ300円いただきます。
申込方法 下記フォームから申込ください。 詳しい内容はイベント開催日の前にメールでお知らせします。ご不明な点があればメール又はお電話にて問合せ下さい。
≪申込&問合せ先≫
NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場
mail info@asobiba-matuyama.org
電話 080-8902-9627
主催 NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場

※この事業は松山市坂の上の雲フィールドミュージアム活動助成金を利用して活動しています。

「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」2020.10.13哲学カフェのテーマ   

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

【はじめに】

 「大きくなったら何になりたいか」と、大人は子どもに問いかけます。(幼いころは「妖精」だったり「動物」だったりする子どもの答えは、成長に伴い「ケーキ屋さん」「幼稚園の先生」「パイロット」などとより現実的なものになっていきます。)

この問いには、2つの暗黙の了解が潜んでいます。

「大きくなったら、今の自分とは異なる何かにならなければならない」ということ。そして、「『今』という時は『将来』のための準備期間である(将来のために努力しなければならない)」ということ。

私たちはこの問いに繰り返し触れてきているので、そこに潜んでいる了解に対しても違和感を感じることはほとんどありません。実際に叶うかどうかは別にして、将来何かにならなきゃいけないし、そのための努力も(理想的には)怠らないほうがよいのだと。だけど本当にそうでしょうか。私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問う―それが哲学です。

 私たちの(そしていわゆる「資本主義社会」の)当たり前とは異なる価値観を形成する民族に関する文章に触れることで、改めて自分たちの「常識」に光を当てることができたらな…と思います。

 

1.アマゾン ピダハン族-『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』

 

(略)10代の破天荒さは万国共通のようだ。

けれどもピダハンの若者が引きこもっているのは見たことがない。いつまでもふて寝をしたり、自分のとった行動の責任から逃げようとしたり、親の世代とは全然違った生き方を模索したりということもない。ピダハンの若者は現にとても働き者で、生産的な部分ではじつによくピダハンの社会に順応している(優れた漁師であったり、村全体の安全を守ったり、食べ物を調達するなど、社会全体の生存に寄与している)。ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答えはもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。

 もちろんこのように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞しがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして難題を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。しかしもし自分の人生を脅かすものが(知るかぎりにおいては)何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、わたしが村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「お前がここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」当時もいまも、これがピダハンの考え方だ。人生は素晴らしい。ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの社会ができあがっている。この考え方に異を唱えるのは容易ではない。(ダニエル・L・エヴェレット 屋代通子訳 みすず書房 pp.142-143)

 作者である伝道師のエヴェレットは、言語習得(聖書翻訳)とキリスト教伝道のためにピダハンのもとで30年もの期間を過ごします。そして、結局のところピダハンを神の教えへと導くことができずに(キリスト教的な価値観においては、現世よりも死後(天国)が重視されます。これは現世に満足しているピダハンとは相容れないでしょう)、それどころか彼自身がピダハンに魅せられ棄教へと至ることとなるのです。

 

2 マレーシア プナン族-『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 

狩猟民族のプナンの日常は、まさに「生きるために食べる」だけで構成されています。「彼らは、森の中に食べ物を探すことに一日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。彼らにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない」(奥野克巳 亜紀書房p.16)。

プナンでは獲物は神経質までに均等に配分されます。彼らにとっては個人所有という概念はなく、あるものは総て「みんなのもの」です。だからこそ、誰かの所有物を受け取ることはないので「ありがとう」とお礼を言うこともありません。そして食料といった物質のみならず、目的(プナンにおいては「生きるために食べる」こと)といった抽象的な事柄も、彼らは共有しています。それ故に(日本ならば明らかに個人に原因が帰せられるような)失敗が生じた場合にも、特定の個人の責任を負わせることにはなりません。「ごめんなさい」という謝罪が発せられることも、謝罪が求められることもないのです。著者は、反省をすることない(悪いと思うこともなさそうに思える)プナンの姿に、当初は居心地の悪さを感じます。しかし次第に、「なぜ反省しないのか」という問い自体がおかしいのかもしれないと思うようになるのです。「実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない」(p.50)と。反省をして「よりよき未来の到来のために今生きる」という私たち現在人の在り方に対して、プナンではシンプルに「今を生きる」だけなのです。そこには「反省」の入り込む余地はありません。プナンには自殺や鬱などの精神疾患が(少なくとも著者の見聞の限りにおいては)ないそうです。

 

3. アマゾン ヤノマミ族-『ヤノマミ』

 

〈ボリバ、ボリバ、ボリバ〉

三回であれば三か月後か三か月前のはずだった。ただ、僕たちには、それが過去のことを言っているのか、未来のことを言っているのか、最後まで分からなかった。

彼らの言葉を訳してみると、今日の狩りから、数年前に死んだ両親の話、そして天地創造の神々の話までが、時制を自由に行ったり来たりしながら語られていた。今日の獲物の話をしたすぐ後で、大地や川や生き物を創造した神についての話が続き、次に自分が子どもの時の思い出話といった具合に、何の脈絡もなく時間軸が移り変わるのだ。彼らは昨日のことを一万年前のように話し、太古の伝説を昨日の出来事のように語った。(国分拓 NHK出版 p.31)

 

 私たちにとっての「一万年前」は、言うまでもなく「遥か昔の時代」であり、通常「自分自身を形成する時」とリンクして考えることはしません。「私たちの時」はどんなに長く見積もっても、計測可能な100年程でしょう。それに対して、ヤノマミの人たちは自分たちの時が、ほとんど「悠久の時」に等しい。私たちにとっては、自分の命の有無(存在しているか、存在していないか)が「私の時」を限界づけています。ヤノマミにとっては、自分の存在の有無を超えて「自分の時」があります。

 「悠久の時」がほとんど「自分の時」と重なる、そんな時間概念に生きることは、私たちとどれほど異なることでしょう。どうして「私たちの時」はこれほどまでに限定されているのか、と更なる問いを立てることができるかもしれません。

【このテーマをどう読み解くのか?】

「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」というテーマについて当日は自由に考え、自由に討論してもらいます。

哲学は最初に書いてあるように私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問うことから始まります。

答えはありません。ぜひみんなで話し合う中で子育てのヒントをそれぞれが見つけてくださいね!

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