おはようございます。本日の森のようちえんみきゃんっ子は朝は雨が降っていますが、10時頃から曇の予報になっているので開催します。
参加する方はカッパも用意して参加してください。
開催についての有無が気になる方は080-8902-9627(山本)までお電話ください。
自然の中でいっぱい遊び生きる根っこを育てる保育
日々の活動の内容や、スタッフの想いなどを綴っています。
おはようございます。本日の森のようちえんみきゃんっ子は朝は雨が降っていますが、10時頃から曇の予報になっているので開催します。
参加する方はカッパも用意して参加してください。
開催についての有無が気になる方は080-8902-9627(山本)までお電話ください。
2021年4月~6月も引き続き森のようちえんみきゃんっ子は火曜日に開催します。申込開始は3月17日以降になる予定ですのでもうしばらくお待ちください。決まりましたらHPとLineアカウントにてお知らせします。
森のようちえんたんぽぽの根っこは昨年の10月から開催しているもので、4月~6月【1期】、9月~12月【2期】、1月~3月【3期】の3期に分けて募集を開始しています。
今回は2021年4月~6月までの12回の預かり保育の募集です。定員12名のところ、継続申込が6名おられたので募集定員は6名となります。
定員となり次第締め切らせていただきますので希望する方はお早めにお問合せ下さい。
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。
とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。
pp.357-358
(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。
日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。
とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。
一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。
母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。
お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。
いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。
「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」
何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。
(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。
ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。
息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。
母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。
愛媛県総合運動公園のキャンプ場で毎週火曜日に開催している森のようちえんみきゃんっ子(親子型)の2月~3月の参加者を募集しています。2月23日(火・祝)以外はまだ申し込みが可能です。
毎回、森を散歩し、薪を焚いてご飯をいただきながら、ゆっくりした時間を楽しんでいます。
参加対象は未就園児(0歳~6歳)と保護者です。お子様に小学生がいる場合は一緒に参加いただいてもOKです。(その場合は参加費が必要となります。)おじいちゃん、おばんちゃんと一緒に参加している方もおられます。
参加希望する方は、参加される方全員(保護者・兄弟も)のお名前、年齢、御連絡先をメール・FAX・電話・はがき、いずれかで愛媛県総合運動公園まで御連絡ください。
たくさんの御参加お待ち致しております。
※新型コロナウイルス感染症予防・拡大防止のため、内容を変更・中止する場合がございます。
※毎月第2火曜日に開催している「哲学カフェ」ですが、2月は第3火曜日に実施予定です。
≪申込先≫
愛媛県総合運動公園 振興課
住所 〒791-1136松山市上野町乙46
℡ 089-963-2216
fax 089-963-4104
mail info@eco-spo.com
おはようございます。1月12日(火)に開催予定でした森のようちえんみきゃんっ子は雨のため中止となりました。本日開催予定だった哲学カフェは来週実施します。
来週は寒波も過ぎ去って、きっと穏やかな森で遊べるのではないかと思っています。ぜひ皆様の参加お待ちしております(^^♪
※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。
違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。
また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。
今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。
はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。
(略)
アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。
サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。
はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。
これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。
はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)
少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。
でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)
この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。
勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。
教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)
わかってしまうとコミュニケーションは終わる
誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。
ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。
人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。
でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。
そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。
読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)
森のようちえんたんぽぽの根っこ預かり保育(2021.1~2021.3)の1月8日の活動ですが、寒波の影響で雪や雨が降り、道が凍結する可能性がありますので、今回は活動を中止とし、後日振替日を決めていきたいと思いますのでよろしくお願いします。
※参加者には個別にメールで同じ内容をお知らせしていますが、届いていないという方は下記までお知らせください。
NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場
℡:080-8902-9627(山本)
mail:info@asobiba-matuyama.org
HP: https://asobiba-matuyama.org/
今年も多くの方のご参加、ご支援ありがとうございました。
2020年が明け、日常の活動がストップしてしまった春。季節の中で外遊び場が一番心地良い時期に自粛しなければならない葛藤を感じたのは誰もが同じ気持ちだったと思います。
しかし、そうした中でもいつもなら見落としがちな自然に目を向け、些細な事にも喜びを感じ、当たり前だと思っていた事柄がこんなにも字のごとく『有り難い』と気づけたことも多かったように感じます。
子どもたちの成長は待ったなしの現実。大人が思っている以上に、あっという間に独り立ちしていきます。だからこそ、小さな手をつないでくれている間にたくさんの方の愛が触れ合いが子どもの思いを受け止める環境が大きな役割を担っているんだとこんなご時世だからこそ感じずにはいられません。
秋に再開した親子型「みきゃんっ子」、今年も開催はわずかでしたが松山のいいところ再発見できた「風の子」、新たな活動の預かり型「たんぽぽの根っこ」どの活動も私たちスタッフにとっても大切な場所です。
たくさんの保護者の方と出逢い、多くの子どもたちの成長をこんなにも間近に感じ、一緒に悩んで、一緒に感じて、一緒に喜びあえる。今年も多くのいろんな感情と共に「今」を生きている瞬間瞬間に出逢えたことに深く感謝申し上げます。
子育てに正解はきっとありません。きっと「楽」な道もありません。でも、きっと「楽しめる」ヒントはたくさん、子どもたちから発信してくれています。
大地に生きる命の根っこをしっかりとはればきっと大丈夫。子どもたちの世界は輝いている。
2021年も皆さんがしあわせな年になりますように♪
12月20日
松山市のあちこちいいところをご紹介しながら、子どもたちと遊ぶ
今日は、一年の締めくくりに
昨年にもおじゃまさせていただき、
今年度の冊子にも掲載させていただいた
「旧へんろ宿 坂本屋」で
おもちつきを開催させていただきました。
コロナ禍の中、私たちスタッフも何度も何度も話し合いを重ね、
集落のご高齢の方への安全も考慮しながらも地元の保存会の方、周辺の方のご理解があって、
例年通りとはいきませんが、
しっかり対策を行いながら無事に開催することができました。
前日、準備とご挨拶に伺ったその中で、
「子どもたちが来てくれるんは嬉しいわい」「本当なら、手伝ってあげたらええのにな~」「うちの駐車場あけとくけん、使ってな~」
と、地元の周辺の方たちからたくさんの温かいお言葉を頂戴致しました。
昨年は、
保存会の方々との直接の交流もありましたが、今年は楽しい時間の裏で子どもたちみんなを見守ってくださっているこうした多くの優しい眼差しがあることを、この場をお借りしてご報告、お礼申し上げます。
子どもたち、そして私たち大人がほっとできる場、
みんなが笑いあえる場、
心から自然と笑みがこぼれる場。
今日の坂本屋で
「さむ~い」と季節を肌で感じ、
おいしいものを「おいしい~」と食べ、自然の中でのびのびと「楽しい~」と言えた時間は何よりのぜいたくかもしれません♪
こんな時代だからこそ、私たち
松山冒険遊び場としてできることがあります。
今年もたくさんの出会いとご縁をありがとうございました。
子育てにつらいときには、皆さんには私たちがいます。仲間がいます。
子育てに楽しい時にも、私たちはいます。こんなにも一緒に喜んでくれる仲間がいます。
子どもの「今」はあっという間。
「今」を生きる子どもたち。
今年もたくさんの場所で
たくさんの自然と共に
たくさんの笑顔をありがとう✨