3/2の森のようちえん みきゃんっ子は開催します。

おはようございます。本日の森のようちえんみきゃんっ子は朝は雨が降っていますが、10時頃から曇の予報になっているので開催します。

参加する方はカッパも用意して参加してください。

開催についての有無が気になる方は080-8902-9627(山本)までお電話ください。

たんぽぽの根っこの預かり保育(2021.4~2021.6)の募集を開始しました。

森のようちえんたんぽぽの根っこは昨年の10月から開催しているもので、4月~6月【1期】、9月~12月【2期】、1月~3月【3期】の3期に分けて募集を開始しています。

今回は2021年4月~6月までの12回の預かり保育の募集です。定員12名のところ、継続申込が6名おられたので募集定員は6名となります。

定員となり次第締め切らせていただきますので希望する方はお早めにお問合せ下さい。

意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1. はじめに

私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。

 

 とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。

2.『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 小松美彦 現代書館

 pp.357-358

(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。

 

 日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。

 

 とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。

3.『亜由未が教えてくれたこと〝障害を生きる〟妹と家族の8800日』 坂川裕野 NHK出版

  1. 181-182

 一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。

 母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。

 お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。

 いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。

「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」

 何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。

4.『「待つ」ということ』 鷲田清一 角川選書

  1. 61-63

(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。

 ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。

 息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。

 母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。

【参加者募集】森のようちえんみきゃんっ子

愛媛県総合運動公園のキャンプ場で毎週火曜日に開催している森のようちえんみきゃんっ子(親子型)の2月~3月の参加者を募集しています。2月23日(火・祝)以外はまだ申し込みが可能です。

毎回、森を散歩し、薪を焚いてご飯をいただきながら、ゆっくりした時間を楽しんでいます。

参加対象は未就園児(0歳~6歳)と保護者です。お子様に小学生がいる場合は一緒に参加いただいてもOKです。(その場合は参加費が必要となります。)おじいちゃん、おばんちゃんと一緒に参加している方もおられます。

参加希望する方は、参加される方全員(保護者・兄弟も)のお名前、年齢、御連絡先をメール・FAX・電話・はがき、いずれかで愛媛県総合運動公園まで御連絡ください。 

たくさんの御参加お待ち致しております。

※新型コロナウイルス感染症予防・拡大防止のため、内容を変更・中止する場合がございます。 

※毎月第2火曜日に開催している「哲学カフェ」ですが、2月は第3火曜日に実施予定です。

≪申込先≫
愛媛県総合運動公園 振興課
住所 〒791-1136松山市上野町乙46
℡   089-963-2216
fax  089-963-4104
mail  info@eco-spo.com

1/12のみきゃんっ子は中止です。

おはようございます。1月12日(火)に開催予定でした森のようちえんみきゃんっ子は雨のため中止となりました。本日開催予定だった哲学カフェは来週実施します。

来週は寒波も過ぎ去って、きっと穏やかな森で遊べるのではないかと思っています。ぜひ皆様の参加お待ちしております(^^♪

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。

 違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。

 また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。

 今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。

2.『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』 松沢哲郎 岩波書店

 はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。

(略)

アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。

サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。

はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。

これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。

はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)

3.『「キモさ」の解剖室』 春日武彦 イースト・プレス

少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。

 でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)

4.『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹 編 犀の教室

 この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。

 勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。

 教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)

 

わかってしまうとコミュニケーションは終わる

 誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。

 ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。

 人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。

 でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。

 そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。

 読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)

1月8日の活動中止について(森のようちえんたんぽぽの根っこ預かり保育(2021.1~2021.3)

森のようちえんたんぽぽの根っこ預かり保育(2021.1~2021.3)の1月8日の活動ですが、寒波の影響で雪や雨が降り、道が凍結する可能性がありますので、今回は活動を中止とし、後日振替日を決めていきたいと思いますのでよろしくお願いします。

※参加者には個別にメールで同じ内容をお知らせしていますが、届いていないという方は下記までお知らせください。

NPO法人みんなダイスキ松山冒険遊び場
℡:080-8902-9627(山本)
mail:info@asobiba-matuyama.org
HP:  https://asobiba-matuyama.org/

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。

「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。

他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。

2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より

(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。

学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。

 

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。

講談社現代新書p.p.114-116

3.「他者との共存」

哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。

 

 国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。

 オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)

 人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。

 むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。

 国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。

 文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。

                                  『AERA』2020年10月12日号

 

ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。

4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より

 これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。

 人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。

                                 晶文社 pp.109-110

【このテーマをどう読み解くのか?】

「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。

理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。

自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。

他者との関わり方・・・

他者とは・・・

他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。

見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。

森のようちえんたんぽぽの根っこ(金)預かり型(2021.1~2021.3)締切りました。

松山市祝谷にあるみかん山をお借りして実施している「森のようちえんたんぽぽの根っこ」1月~3月の毎週金曜日(計12回)の参加者の申込を本日定員となり締切りました。

申込を希望されていた方もおられたと思うのですが申し訳ありません。今後も参加を希望する皆さんの要望をお聞きし、活動の幅を広げていきたいと思いますのでご協力よろしくお願いします。