※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。
1.はじめに
「個性的な人間であること」、「ナンバーワン」だったり「オンリーワン」だったりすること。私たちは、日常生活の至るところで(あるいは教育の現場で掲げられている目標として)「自分らしくあること」の獲得に心を砕いています。生まれてきてくれるだけで有り難かった我が子も、元気で育ってくれるだけでよかったはずなのに、成長するにしたがって欲が生じて「他の人とは異なる」この子にしかない「個性」を獲得させたいと思ってしまう…。もちろんそれは子を思うが故の多くの人の抱える親心でしょう。決して否定されるべきものではありません。だけれども、そもそも、どんな人間だってみんな違うのは当たり前です。誰だっておのずから個性的です。にもかからわらず、私たちの求める「個性」とは、単に他者との特異性が意味されているのではなく、「他の人と違って優れていること」が目指されているのではないでしょうか。
今回は「私らしさ」について、自分に備わる個別性、特異性にスポットを当てて考えてみたいと思います。まず、ポジティブな意味での「私らしさ」について(②)。続いて、ネガティブな意味での「私らしさ」について(③)。最後に、「私らしさ」とは、その能力や特質に潜んでいるのではなくて、存在そのもののうちに根拠をもつということについて(④)。
2.『コード・ガールズ 日独の暗号を解き明かした女性たち』
ライザ・マンディ みすず書房 pp.64-65
そのころすでに、教師が暗号読解への適性が高いとわかりつつあった。その理由は、高度な教育を受けたこと以外にもたくさんあった。(略)暗号読解には、読み書きの能力と計算能力、創造力、労を惜しまない細かな気配り、優れた記憶力、くじけずに推量を重ねる力が求められた。単調な骨の折れる作業に耐える力と、尽きることのないエネルギーと楽観的な心構えが必要だった。(略)
趣味、それも芸術的な趣味をもっていれば好ましいこともわかってきた。「外の世界に向いた創造的な興味関心や趣味をもっていた者は、映画などの娯楽が好きな者と比べて、おおむねとても良い結果を出している」と文書の最後に書かれている。
気質も重要だった。ここでもまた、学校教師の長所が物を言った。もっとも優れた暗号解読者は、「成熟し頼りになり」、「明晰で怜悧な頭脳」をもちながら、「機敏で順応性が高く、すぐに適応できて、監督されることを受け入れ」、「ワシントンの不便な生活にがまんできる若い人物」であると判明しつつあった。この要件は、ドット・ブレーデンをはじめとして、多くの学校教師にぴったりあてはまった。
3-1.村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』
青土社 pp.104-105
こうして「犯人は誰か」という謎は、当事者にとっては気づかれもしない死角であるということが明らかになる。自分の身体に縛られている私たち人間は、傍観者であろうが当事者であろうが状況の核心を見通すことができない。それだけでなく、状況からこぼれ落ちている死角があるということにすら、気づくのが難しいのだ。身体をもって存在するという条件のなかに、死角が組み込まれているのである。状況のなかの見えない部分もまた、身体の延長線上にあるのだ。死角は世界において身体から見えない部分として生まれるが、同時に身体との相関においてのみ生まれる以上、〈身体の余白〉の一部なのである。人間が身体をもつ限りにおいて、視点が生じ、死角が生じる。そしてこの死角こそが、〈その人だけが知りえないもの〉という仕方でその人の特異性を作るとすると、この特異性は身体の余白において生じるものであることになる。身体の余白は身体そのものではなく、身体をもつがゆえに見えなくなる死角であり、身体の絶対的な外部だ。〈身体の余白〉は身に見えるモノや人でもなければ、意識されるものでもなく、身体でもない。(略)〈その人だけが知りえないもの〉という〈身体の余白〉はその人の個別性を指し示す。人は自分自身でないものによって個体化するのだ。
3-2.『みんな水の中「発達障害」自助グループの文学研究者はどんな世界に棲んでいるか』
横道誠 医学書院 pp.42-43
私もあなたも、脳の多様性を生きている。脳の多様性とは、英語でいえばニューロダイバーシティ、神経多様性とも訳されるものだ。私は神経発達症群の当事者だ。それは日本での一般的な言い方をすれば発達障害者ということになる。あなたは私と同じくそうかもしれないし、そうではない「定型発達者」かもしれない。いずれにしても、脳の多様性を体現している。
発達障害者という言い方は、本書で応援する社会モデルの考え方からすれば、不適切な表現というほかない。社会モデルは医学モデルと対をなす用語で、医学モデルが障害の発生場所を個人に見るのに対して、社会モデルはそれを環境に見る。たとえば、視覚障害者が社会からの充分な支援を受け、生きていく上でなんの困難もないと感じる環境を得られれば、その人は「眼が見えないだけの健常者」ということになる。楽器を弾けない人がいるように、特定の食べ物を食べられない人がいるように、そもそも人間が自力で空を飛べなくても、それだけでは決して致命的ではないように、眼が見えないだけなのだ。
この考え方に立つならば、発達障害者も、環境との不一致を起こしているからこそ「障害者」になっているだけだと言える。村上直人は定型発達者と発達障害者の関係をWindowsとMacの違いにたとえ、前者にできて後者にできないことがあっても、それは欠如や障害ではないと述べている。まったく同感だ。
4.存在の二つの意味-「本質存在」と「現実存在」
存在とは「ある(在る)」で言い表されている事柄です。この「ある」ですが、二つの様態に分かつことができます。
・「本質存在」 「事物が…である」こと
・「現実存在」 「事物がある」こと
例えば、ペットボトルとは「ポリエチレンテレフタラート製の容器である」ということは、ペットボトルがペットボトルであるために必ず備えていなければならない性質です。これが伝統的にヨーロッパ哲学では「本質(存在)」と呼ばれています。それに対して、その本質が定まったとしても、実際に現実に存在する(「現実存在」)か否かについては別次元の問題だということができます。例えば「かぐや姫」や「鬼」などの想像上の人物や架空の生き物について、私たちはその本質(それがなに「である」か)は理解しているけれども、それらは現実に存在(「がある」)しているとは言えません。
(『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』 貫成人pp.13-15を山本により要約)
本質存在とは「私は…である」という在り方のことであり、その「…」で表されている私の内実は、無限とは言えないとしても幾通りもの仕方で語ることができ、またそれを失ったとしても別のあり方をすることが可能です。つまりそれは、他者と取り替え可能な(私である必然性はない)レベルでの存在の仕方だと言うことができるでしょう。それに対して、「私が在る」という現実存在は、それを失ってしまったならば私であることがなくなるような、まさに唯一無二の、他者と取り替え不可能な在り方なのです。