「コロナ禍の今、見えるもの、考えること」…2021.10.12哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 「コロナ禍」という言葉が私たちの日常に入り込み、もう二度目の秋を迎えています。外出する際にマスクは、スマホ、財布、鍵と並ぶ必需品となりました。コロナ禍において日常は刷新され、私たちは「ニューノーマル」という「新たな常識」を迎え入れないといけない、ということになっているようです。マスクや消毒や人との距離について常に意識しなければならなくなり、たかだか三年前のマスクなしの日常風景にすでに違和感を抱くほどです。しかしながら、このような時だからこそ(あえて言うならば「異常時」だからこそ)見えてくる事柄、そしてそこから考えるに値するような事柄に出会うこともあるのではないでしょうか。

 今日は「コロナ禍」をキーワードに拾ってきた文章をもとに、みなさんと一緒におしゃべりに興じることができたらいいなと思っています。

 以下、引用です。テーマはもちろん「コロナ禍」ですが、敢えて副題を示すとしたら次のようになります。

 

2→「コロナ禍」で見えてきたもの

3→極限状態でのポジティブな人間のあり方

4→リスク受容における人間の認知のくせ 

2.『アルベール・カミュ ペスト 果てしなき不条理との闘い』中条省平                            NHK出版 pp.126-128

 実際、コロナ禍のさなかでこの小説を読み直してみると、その鋭い予見性に心の底から感嘆させられます。

 現代社会は経済を第一原理として動いています。経済とは、金銭の循環、物資の流通、人間の移動と交流にほかなりませんから、そうした物と人の移動がことごとくウイルスの感染の促進に直結してしまう今回の事態は、経済活動の不可能性という無理難題を私たちの社会に突きつけてきました。『ペスト』で疫病に襲われたアフリカの植民地の町オランと同様に、日本を含めて全世界が、経済活動の停止あるいは最小限化に向かわざるをえませんでした。

『ペスト』の冒頭近くにはこう書いてあります。

「ここの市民たちは一生懸命働くが、それはつねに金を儲けるためだ」

 私たちもまた経済至上主義の社会に生きて、そのことに疑いをもたなかったのですが、コロナ禍のもとで、この経済偏重の生き方を否応なく反省させられることになりました。

 コロナ禍の初期段階で、「経済活動を制限してはいけない。そんなことをすれば、多くの人々がコロナが蔓延する前に経済の停滞で死んでしまう」といった経済活動を何より優先する言説が多く聞かれました。経済的に困窮した人を救うことは、コロナ禍のなかであろうと平常時であろうと政府の仕事です。そうではなく、経済の停滞がすぐに人々の死(自殺)を招くような過熱し切迫した経済のあり方こそ改善されるべきだという反省が、何よりも必要なのです。

3.『無人島に生きる十六人』「四つの決まり」「心の土台」より  須川邦彦 新潮社

「島生活は、きょうからはじまるのだ。はじめがいちばんたいせつだから、しっかり約束しておきたい。

 一つ、島で手にはいるもので、くらして行く。

 二つ、できない相談をいわないこと。

 三つ、規則正しい生活をすること。

 四つ、愉快な生活を心がけること。

 さしあたって、この四つを、かたくまもろう。

(略)

水浴びがすむと、四人は深呼吸をして、西からすこし北の日本の方を向いて、神様をおがんだ。それから、島の中央に行って、四人は、草の上にあぐらをかいてすわった。

私は、じぶんの決心をうちあけていった。

「いままでに、無人島に流れついた船の人たちに、いろいろ不幸なことが起って、そのまま島の鬼となって、死んでいったりしたのは、たいがい、じぶんはもう、生まれ故郷には帰れない、と絶望してしまったのが、原因であった。私は、このことを心配している。いまこの島にいる人たちは、それこそ、一つぶよりの、ほんとうの海の勇士であるけれども、ひょっとして、一人でも、気がよわくなってはこまる。一人一人が、ばらばらの気もちではいけない。きょうからは、げんかくな規則のもとに、十六人が、一つのかたまりとなって、いつでも強い心で、しかも愉快に、ほんとうに男らしく、毎日毎日をはずかしくなく、くらしていかなければならない。そして、りっぱな塾か、道場にいるような気もちで、生活しなければならない。この島にいるあいだも、私たちは、青年たちを、しっかりとみちびいていきたいと思う。君たち三人はどう思っているかききたいので、こんなに早く起したのだ」

運転士は、いった。

「よくわかりました。じつは私も、そう思っていたのです。これから私は、塾の監督になったつもりで、しっかりやります。島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう」

漁業長は、

「私も、船長とおなじことを思っていました。私はこれまでに、三度もえらいめにあって、九死に一生をえています。大しけで、帆柱が折れて漂流したり、乗っていた船が衝突して、沈没したり、千島では、船が、暗礁に乗りあげたりしました。そのたびに、ひどいくろうをしましたが、また、いろいろ教えられて、いい学問をしてきました。これから先、何年ここにいるか知れませんが、わかい人たちのためになるよう、一生けんめいにやりましょう」

いちばんおしまいに水夫長は、ていねいに、一つおじぎをしてから、いった。

「私は、学問の方は、なにも知りません。しかし、いくどか、命がけのあぶないめにあって、それを、どうやらぶじに通りぬけてきました。りくつはわかりませんが、じっさいのことなら、たいがいのことはやりぬきます。生きていれば、いつかきっと、この無人島から助けられるのだと、わかい人たちが気を落とさないように、どんなつらい、苦しいことがあっても、将来を楽しみに、毎日気もちよくくらすように、私が先にたって、うでとからだのつづくかぎり、やるつもりです」

4.『リスク心理学 危機対応から心の本質を理解する』中谷内一也                           ちくまプリマ―新書 pp.60-61

問4 新型コロナ禍では、時間短縮を余儀なくされながら、感染防止に配慮しつつ、営業を継続している飲食店も多くありました。さて、あるサラリーマン(仮名:武内氏)がいます。彼は、「友人と誘い合わせて居酒屋で飲み会をする」のと、「上司の命令により同じ居酒屋で取引先を接待する」のとでは、どちらを感染リスクが高いと感じるでしょうか。実際にどちらの感染リスクが高いかではなく、武内氏がどちらをより高いと感じるかを考えてみてください。

 

おそらく、彼は自分が望んで居酒屋で過ごす場合はリスクは大したことはないと解釈し、他人に強いられて過ごす場合は、リスクは大きなものと感じることが、後に詳述するリスク認知モデルから予測されます。つまり、リスクを負う状況に至る自発性がリスク認知に影響するというわけです。もちろん、ウイルスは武内氏が望んでそこにいるのか、嫌々そこにいるのかを関知するものではありませんし、感染力が変わるわけではありません。つまり、客観的なリスクは同じであっても、自発性という要素がリスクへの「認知」を変えるということです。

 

コロナ禍の日常がもうすぐ2年になろうとしています。今回の哲学カフェではこの状況下をどう捉えるのか?・・・それぞれが考える機会になればと思っています。子どもとの向き合い方に悩んだり、イライラする自分の対処法など・・・個々に悩みは尽きないと思いますが、森のようちえんみきゃんっ子が「まずはホッとできる居場所」であればと願っています(^^)。
%d人のブロガーが「いいね」をつけました。