ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

ネガティブな感情について・・・2021年3月9日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 感情(passion)とは、ラテン語の‛patior’に由来します。‛patior’とは、研究社羅和辞典によると「苦しむ、受ける、耐える、許す」という意味です。つまり、「私はある感情に襲われた」という表現がいみじくも示しているように、感情に対して人間は引き受けることしかできません。私は嬉しい気持ちになりたいから、意志でもって「嬉しい気持ちになることを選ぶ」なんてできない。悦びだって哀しみだって、ただ私にやってくる。私はその感情を拒む権利をそもそも持ち合わせていないと言えます。人間は感情に対して、どこまでも受け身的であらざるをえない存在なのです。

 だとするならば、どんな種類の感情を抱いたとしても、そのこと自体は善でも悪でもありません。何らかの問題が生じるとしたら、その感情の帰結となる「振る舞い」だと言うことができるでしょう。たとえネガティブな感情を抱いたとしても(ネガティブな感情が心に湧き上がってきたとしても)そのこと自体を否定することなく、その帰結としての振る舞いに着目する。「振る舞い」ならば(場合によって容易にいかないことはあるにしても)、意志によって変更することはある程度可能ではないでしょうか。あるいは、たとえ変更できなかったとしても、異なる環境に身を置くことによってその「振る舞い」の意味するところを変えることはできそうです。

 今回は、ネガティブな感情から引き起こされる「振る舞い」の可能性について考えていきたいと思います。ネガティブな感情とは、細かく見ていくと際限がありませんが、大まかには「自分や他者を傷つけたり、破壊したいと思う気持ち」へと集約されるのではないかと思われます。

2.大江健三郎『「新しい人」の方へ』 朝日文庫 95-98

 ただ意地悪な気持に動かされて、人を批評してしまうのは、子供のやる―大人でもやりますが―いちばん良くないことのひとつです。

 子供の私にも、家族や友達や村の通りで出会うだけの人や、さらに犬や猫にたいして、意地悪な気持になることはよくあったものです。それも相手に理由があってというのではなく、自分のなかに「意地悪のエネルギー」が湧き起こって、抑えられない結果でした。

 子供が、つい意地悪なことをやってしまうのは、まあ、仕方のないことでしょう。いまいったとおり、「意地悪のエネルギー」が働きだして、それに動かされているのですから。

 そのように意地悪なことをしてしまった後で、自分が意地悪だった、と気が付かないことはまずありません。自分がやったことを、胸のなかのブラウン管に映し出されるような思いがします。しかも、「意地悪のエネルギー」は、いったん使ってしまった以上、弱くなっています。つまり、反省することは難しくありません。反省の仕方としては、自分がいったりしたりした意地悪なことをよく思い出した上で、―こんなことは、なにも生み出さない!とつくづく思うだけでいいのです。

 その反対に悪い態度は、自分が意地悪をしたのは、相手にこちらの意地悪さをさそうところがあったからだ、と考えることです。相手のヴィルネラビリティー※のせいにすることです。

 (略)

 福沢諭吉は、人間とはどういうものなのか、ということをよく知っている人でした。そして、人間の素質のなかで、ただ悪いだけで、良いところはなにもないのが、「怨望(えんぼう)」だといっています。たとえば、乱暴な素質の人には―福沢は、粗暴と呼んでいますが―、勇敢な、という良い素質がある。軽薄な人には、利口なところがあるといってもいい―福沢の言葉では、怜悧(れいり)―というのです。

 しかし、怨望という素質だけは―人をうらやむ、人に嫉妬する、ということですが―、良い素質とつながっていない。なにか良いものを生み出すところがまったくない、といいます。

 いまはほとんど使われることのない、この怨望という言葉ですが、皆さんの頭のすみにしまっておいていただきたい、と思います。そして将来、とても困った人物となにか一緒にしなければならなくなった時、相手にこの言葉とぴったりするところを見つけたら、本気で怒ったり悲しんだりしないことにすればいいのです。

 私は、子供の世界で、「怨望」に近い素質が、意地悪さじゃないか、と思っています。

 怨望イクォール意地悪さ、というのじゃありません。怨望から大人のやることが、子供のやってしまう意地悪に近い、ということです。あなたに意地悪をいったりしたりすることを続ける人がいれば、

―よし、ぼくは(私は)この人のいったりしたりすることに、本気で怒ったり、悲しんだりはしない、と自分にいえばいいのです。

 そして、自分としては、人に意地悪なことをいったりしたりはしないことにしよう、という原則をたてればいいのです。「意地悪なエネルギー」はなにも生み出しません。子供の私は「生産的でない」という言葉を本で読み、気に入って、こういう場合に使っていました。

※ヴィルネラビリティー・・・可傷性.傷つきやすさ.弱さ.フランスのユダヤ系哲学者E.レヴィナスの用語.バルネラビリティーともいう

3.河合隼雄 村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』 新潮文庫 167-170

河合

 そのひとにとってものすごく大事なことを、生きねばならない。しかし、それをどういうかたちで表現するか、どういう形で生きるかということは、人によって違うのです。ぼくはそれに個性がかかわってくると思うのです。生き抜く過程のなかに個性が顕在化してくるのです。

 人間の根本状態みたいなものはある程度普遍性をもって語られうるけれども、その普遍性をどう生きるかというところで個性が出てくる。だから、ある人は海に潜るよりしかたがないし、ある人は山にいくよりしかたないし、ある人は小説を書くよりしかたがない。

 

河合 殺すことによって癒される人

 これは大変重い話題です。しかし、心理療法をしている限り決して避けて通ることはできません。「殺す」という場合、自分自身を殺す、つまり自殺も含めて考えるべきと思います。他殺あるいは自殺によってのみ癒される人は存在するのか、ということです。

 そんな人はいると思います。しかし、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、そこから一般的ルールや結論などは取り出せないと思います。そして、心理療法家としては―オプティミスティクすぎると言われそうですが―そのような運命を背負った人が、どのような「物語」を生み出すことによって、この世に生きながらえていくか、ということに最大限の力をつくすべきだと思っています。

 夢の中で自殺や他殺を「体験」する人がいます。そのときの深い感動などに接すると、「殺すことによって癒す」体験をこの人はしたのだなと思います。わたしはクライエントの夢の中で何度も死んでいます―実際はしぶとく生きていますが―。「殺す」ことの象徴的実現に向けて、わたしの容量の可能な限り、「殺すことによってのみ癒される人」と立ち向かっていると思う時もあります。

 あるいは、文学作品の中の自殺や他殺もこのような意味を持つときもあるのではないでしょうか。

 私はあるクライエントが治療関係が終わってから、「河合先生に会った最大の不幸は自殺できなくなったことだ」と言われるのを聞いたことがあります。これはなかなか微妙な表現ですが、「自殺によって癒される人」が、私に会ったために敢て「癒されない」人生を選ぶことによって、この世に生きながらえることにされた、とも受けとることができます。この言葉はずっと私の心の中に残っていて、折にふれて自分の心理療法の在り方について反省する景気を与えてくれています。

 ともかく、人間の「死」ということに関する限り、一般論はできない、と私は思っています。

※オプティミスティク・・・楽天主義の、楽観的な

4.小松美彦『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 現代書館245-246

「尊厳」とは立ち現れる共鳴関係のことである

 ここで話を中村有里ちゃんに戻します。「有里は生きる姿を変えただけなんです」という言葉で、お母さんは、どんな状態になっても「いる」ことが大事なのだと訴えたかったのでしょう。ただし、その言葉と語りには豊かな構造があります。すなわち、有里が生れ落ち、脳死状態となり、闘病生活を続けてきた、こうした一連の過去が現在の立脚点になっており、その現在は未来へと開かれたものになっている。そして、開かれた先には「いない」が待っている。「しばらくの間いない」のではなく、「永遠にいない」日がやがては到来する。お母さんはこのすべてを引き受けて、かの言葉を発したといってよいでしょう。いつ訪れるかわからない「いない」を含み込んだ「いる」であることを、お母さんは覚悟していたのだと思います。

 この意味で、「有里は生きる姿を変えただけなんです」と語ったその瞬間に、お母さんと有里ちゃんとの間に立ち現れた共鳴関係、それが《人間の尊厳》なのです。

 そうすると、《人間の尊厳》とは、大それたことではありません。「ただいること」をめぐって生起する当たり前のことです。本書ではあえて分析的に論じましたが、本当は誰しもが日常生活のなかで感じてきたはずのことなのです。メーテルリンク作『青い鳥』のチルチルとミチルは、夢のなかで幸せ(本当に青い鳥)を求めて旅立ち、探しあぐねて夢から覚めると、幸せとは最も身近でささやかな日常(もともと飼っていたただの青い鳥)であったことがわかります。《人間の尊厳》も、これと同じでしょう―それゆえに私は、「「人間の尊厳」などという概念はなくてもよいと思っています」と先述したのです。

 そうでもあるにもかかわらず、私たち人間は、〝本当に青い″「人間の尊厳」を探し求め、「理性」、「知性」、「精神」、「生きようとする意志」、「自己意識」等々として、みつけたつもりになってきました。そしてその結果、「もう二度とこんなことを繰り返してはならない」事態を引き起こし、今もなお引き起こしつづけています。脳死者、植物状態や終末期の患者、人工呼吸器や人工透析器や胃瘻によって生かされている人々……、この者たちは「人間の尊厳」を損なっている、だから尊厳のある死を、と。

 しかしながら、これまで述べてきたように、《人間の尊厳》が、眼差す者と眼差される者との間に、叫ぶ者と叫ばれる者との間に、立ち現れる共鳴関係のことであるなら、そして、これら両者の一体化の別名であるなら、脳死者たちの存在そのものを否定する人々は、《人間の尊厳》の要素が損なわれているのは、逆説的にも、脳死者たちではなく、脳死者等々には「人間の尊厳が損なわれている」と考える人々のほうなのです。そしてそうだとすると、この人々が《人間の尊厳》に出会うことは、チルチルとミチルのように普通の「幸せ」に気づくことは永遠にないでしょう。「このままでは」とは、「脳死者たちを対象化しているかぎり」と言い換えてもよいでしょう。そもそも対象化とは、眼前の者たちの固有性を受け入れて己が一体化することを、拒絶する姿勢に他ならないからです。

【自分自身の悩みを紐解くヒントとして…】

子育ても、夫婦関係も、仕事においても悩みは尽きないものですが、そんな悩みを違う観点から考えてみるという時間も大切なように思います。

わが子の発達段階が他の子と比べて遅かったり、早すぎたり、乱暴だったり、おとなしかったり・・・普通という枠から外れることが不安につながり、ネガティブ思考へとシフトする傾向にありますが、それはどうしてなのか?

普通が良いことなのか?なぜ不安なのか?親としてどうとらえていくことが良いことなのか?

毎回答えはないけど、各々が自分の今の悩みと向き合いながらゆっくりと考える時間にしたいと思います。