意味があるとか役に立つとか、意味がないとか役に立たないとか…2021年2月16日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1. はじめに

私たちは行動を起こす際の動機の基準として「意味がある」とか「役に立つ」ことを求めがちです。「意味がない」こと「役に立たない」ことは、無駄なものだと排除されることが多い。けれども価値観や、立場・状況が異なれば、両者は容易に反転しうるとも言えるでしょう。人生の転機を経て、今まで無意味だと感じていた事柄に意味を見出すということはありがちなことです。「意味がある」かどうか「役に立つ」かどうかを判断する際に、俯瞰的な眼差しから捉えることで、安易な決めつけを避けることができるようになるのではないでしょうか。

 

 とは言うものの、そもそも、「意味がある/意味がない」、「役に立つ/役に立たない」という物差しをもつこと、その物差しでさまざまな物事を測ること―そこから自由になる可能性はないのでしょうか。物事の(あるいは人間の)内実に評価を下すのではなく、「存在しているということ」そのものにフォーカスすること。そして望むらくは、その存在自体を稀有なこととして、かけがえのないものとして捉えることができたらとも思うのです。

2.『「自己決定権」という罠 ナチスから新型コロナ感染症まで』 小松美彦 現代書館

 pp.357-358

(略)実際、現在の人工呼吸器の不足とは、政府・厚労省の施策の結果なのです。この点に関して、前出の横倉義武日本医師会会長の発言がすべてを体現しています。「緊急事態宣言」解除後の記者会見(五月二十七日)での発言を、当日の《医療維新》がこう報じています。

 

 日医会長の横倉義武氏も、「幸いなことに、地域医療構想が徐々に進められてきたために、まだ病床の統合再編が行われている地域が少なかった。今回多くの患者が発生し、かなり〝医療崩壊″に近いところまで追い込められたが、何とかそれを持ち堪えることができたのは、そのスピードの遅さがよかったと理解している」との見解を示した。「我が国の医療提供体制は、ある意味で無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」と述べ、この結果を踏まえて、今後の地域医療構想の進め方を検討する必要があるとした。

 

 とりもなおさず、本書が批判的に述べてきた医療の縮減政策が、とりわけ二〇一九年秋の厚労省方針が存外に進んでいなかったことが、私たちを医療崩壊から救ったというのです。そして、「無駄に見えていたものが、今回の感染では非常に役に立った」という発言は、私たちが将来に向けていかに舵を切り替えるべきかを教示しているといえるでしょう。本章は冒頭で「日本零年」という標語を掲げました。横倉会長のこの金言こそ、「日本零年」の礎とすべきものです。「無駄」がパンデミックからも私たちの〈いのち〉を救うのです。

3.『亜由未が教えてくれたこと〝障害を生きる〟妹と家族の8800日』 坂川裕野 NHK出版

  1. 181-182

 一人一人のところへ回りナプキンを取ってもらうのだが、ある男性が亜由未の前でピクリとも動かない。聞けばもう九〇代で、常に動かざること山のごとし、じっとしているのだという。亜由未の方もニヤニヤしたまま、握りしめたナプキンを離さない。いや、離せない。お互い顔を見合わせたまま、膠着状態に突入する。

 母が状況を打開するべく、亜由未の手から男性にナプキンを直接手渡ししようと動き出した、そのときだった。

 お年寄りの男性は、じわりじわり、ゆっくりと亜由未の方へ手を伸ばした。そしてナプキンを受け取ると、それだけにとどまらず亜由未の手を握りしめ、しばらくの間離さなかった。亜由未は一瞬驚いた素振りを見せたあと、すぐに元の笑顔に戻った。亜由未と男性、二人の時間が流れた。

 いつもは全然動かない男性が自分から亜由未の方へ向かっていったことに、周囲はざわついた。母は、自分が余計な橋渡しをしなくて良かったと思った。

「支援って、何でもやってあげることじゃなくてさ、自分が動きたいって思うような気持にする、自身がやりたいことを助けるのがいちばんいい支援だから。いつもは動かない人を動かしたっていうのは最高の支援だと思ったのね。亜由未ってすごくいいヘルパーになるなって思った」

 何もできないからこそ、周囲に「助けてあげたい」「どこか人肌脱いでやろう」と思わせる。一見無力かもしれないが、その無力さが誰かの優しさを引き出す。そして、「みんなお互い様なんだよ」と気づかせてくれる。亜由未は、ずっと支えられているように見えて、実は誰かを支えているのかもしれない。

4.『「待つ」ということ』 鷲田清一 角川選書

  1. 61-63

(略)「『何のために』人間は生きるかという問いは、『何のために』人間は死ぬかという問いとおなじように、〈空想〉的にしか論ぜられません。だからこの問いを拒否することが〈生きる〉ということの現実性だというだけです」(吉本隆明『どこに思想の根拠をおくか』)。そのうえで言うのだ。「時間を細かく刻んで」、と。

 ここでわたしは、わたしのばあいにはけっしてそうではなかった〈母〉というものの姿をおもう。

 息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「とるにたらない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。起きたらまず食事を作る、洗濯物を干す、洗い物をする、掃除をする、繕いものをする、昼になればまた食事を作る、洗濯物をたたむ、また洗い物をする……。家族の、そしてじぶんのいのちを、ただ維持するだけのいとなみ、その、いつまでも〈意味〉の到来しないただの反復に耐えられるということが、彼には理解できない。母親には、息子が何に喘いでいるのかわからない。喘いでいることを知ろうとしないのかもしれない。ただ彼がじぶんとともにいた場所から遠ざかろうとしていることだけはわかる。じぶんを棄てようとしていることだけはわかる。

 母親は仕方なく待つ。待つよりしようがないとおもう。何を?彼がいつか戻ってくることを、だろうか。たぶんそうではない。切れた糸は二度と同じかたちでは合わさらない。その糸はどこに行こうとしているのかはわからないけれど、いつかその糸に別のかたちでもういちどふれることがあるかもしれない。きっとあるはずだ。だから待つしかない。が、この待つ姿、じぶんが待たれているということを、息子は煩わしがったのだろう。だから待ってはいけない。待つのではなく、待機していること。いつもどおりに同じことをおなじようにやっていること。万が一、彼が戻って来たときのために、場所を変えず、いつもどおりそこにいること。それしかない、が、それがいちばん苦しい。だから、じぶんが待っているということ、そのことをまずじぶんが忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったではないか。明けても変わらぬ味つけがその変わらぬことによって、あの子の表情を反転させたことがあったではないか。ふだんは「またかよう」と、ふてくされた顔をするあの子の顔を一瞬、反転させたことが。あの子にはついに欺かれていい。待つことなく待機していて、最後は甲斐なしとなってもいい。欺かれることで、思いもしなかった関係が生まれるやもしれない。それは関係がこれっきり生まれないことよりもうれしいことだ。いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしかわたしにはできない……。

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