私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

私とあなた-「何か違う」と思うこと。2021年1月12日哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

 私とあなた-何かが違うことは当たり前。どんなに近しい相手であってもものの考え方や感じ方が似ていたとしても、やっぱりどこか違う。その違いが言葉にできるうちは、相手を理解していることになるし距離の取り方もわかっている。その人と私は関係性のうちにある-と言うことができる。けれども、その違いが漠然としたものだったらどうでしょう。はっきりと言葉にすることができないけれど「何か違う」という感じ。違和感を覚える、と言ってもいいかもしれない。

 違和感を覚えると、私たちは居心地の悪さを感じ、その対象を避けがちです。自分にとって理解の範疇を超える相手を危険なものとみなすことは、我が身を守るためにある程度必要なことかもしれません。けれども「違和感」が故に他者を避けるのではなく、敢えて受け入れることによって、コミュニケーションの質が深まることもあるのではないでしょうか。正面から「違和感」を受け入れることによって、その「得体の知れなさ」が私の言葉となり自分の中に位置づけることができるかもしれない。

 また、居心地の悪さゆえに「違和感」を正面から受け入れることが難しいときに、私たちは敢えてその「違和感」に目を瞑るということもあるように感じます。その言葉にならない気持ち悪さをなかったことにしたいという気持ちが働くのでしょう。「違う」と表明することが差別へとつながると考えられている昨今の過剰な平等主義が、その態度を後押ししているとも言えるかもしれません。しかしながら「みんな同じ」を強調することは、「その人らしさをなかったことにする」という新たな暴力になるとは言えないでしょうか。

 今回は、本来違和感を覚えてしかるべき場面で違和感をもたないことを(2)、違和感をもつことが差別だと非難する風潮に対する意見を(3)、さらには違和感がもつコミュニケーションを(高き方へと)変質させる可能性を(4)示唆していきたいと思います。

2.『想像するちから チンパンジーが教えてくれた人間の心』 松沢哲郎 岩波書店

 はじめてアイに会ったときのことを、今でもよく覚えている。

(略)

アイの目を見ると、アイもこちらの目をじっと見た。これにはとても驚いた。その前の一年間、ニホンザルと付き合っていて、サルとは目が合わないことを知っていたからだ。サルは、目を見ると「キャッ」と言って逃げるか、「ガッ」と言って怒る。

サルにとって、「見る」というのは「ガンを飛ばす」という意味しかない。それに、見知らぬ人に出会ったニホンザルはまったく落ち着かない。ところがアイは、こちらがじーっと見たら、じーっと見つめ返した。

はたと気が付いて、何かしてみようと思った。けれども、あいにく何も持っていなかった。ただ、いろいろな作業をするために白衣を着て、黒い袖当て―昔の役場の書記がするような―を着けていた。ほかに何もなかったから、袖当てを腕から抜いてアイに渡してみた。すると、アイはすーっと手をそこに通した。

これがニホンザルなら、受け取ったとして、匂いを嗅いで、かじってみて、食べられなければ捨てておしまい。でもアイは、ためらわずに受け取って、すーっと腕から抜いて、「はい」って返した。

はじめて会った日に、これはサルじゃない、ということがよくわかった。目と目で見つめ合うことができる。自発的に真似る。そして、何か心に響くものがある。( pp.1-2)

3.『「キモさ」の解剖室』 春日武彦 イースト・プレス

少なくとも人間に対しては、キモいという言葉には相当な破壊力があります。残忍としか言いようのない効果をもたらすことがある。そういったいいでは取り扱い注意と心得るべきでしょう。面と向かって「お前、キモいよ」と言ったとしたら、その発言は100パーセント、相手の心を傷つけます(薄笑いを浮かべながら言えば冗談で済む、なんてことは決してありません)。

 でも、キモいと思うこと自体が反道徳的である、といった意見はどうでしょうか。わたしは、キモいと感じることのできるセンスは人間として大切だと考えます、キモいと感じてもそれを悪いことと捉える必要はない。そもそもキモさとは得体の知れないことへの戸惑いや狼狽、違和感に対する心地悪さ、理解の及ばないことへの不安や苛立ち、自分の知識や感覚では把握しきれぬ存在への畏怖といったものが微妙に混じり合った「気配」のことではないでしょうか。そのようなものをスルーしてしまうなんて、おかしいじゃないですか。人間の営みとして変です。(pp.15-16)

4.『転換期を生きるきみたちへ 中高生に伝えておきたいたいせつなこと』内田樹 編 犀の教室

 この世に「最低の学校」というものがあるとすれば、それは教員全員が同じ教育理念を信じ、同じ教育方法で、同じ教育目標のために授業をしている学校だと思います(独裁者が支配している国の学校はたぶんそういうものになるでしょう)。でも、そういう学校からは「よきもの」は何も生まれません。これは断言できます。とりあえず、僕は、そんな学校に入れられたら、すぐに病気になってしまうでしょう(病気になる前に、窓を破っても、床に穴を掘っても、脱走するとは思いますが)。僕はそういう「閉鎖的」な空間に耐えることができません。どんな場所であれ、そこで公式に信じられていることに対して「それ、違うような気がするんですけど」という意思表示ができる権利が確保されていること、それが僕にとっては、呼吸して、生きていけるぎりぎり唯一の条件です。

 勘違いしないで欲しいのですが、「僕の言うことが正しい」と認めてほしいわけではないのです。僕が間違っている可能性だってある(だってあるどころかたいていの場合、僕は間違っています)。それでも、みんなが信じている公式見解に対して、「あの、それ、違うような気がするんですけど」と言う権利だけは保障して欲しい。「僕が正しい」とみんなに認めてほしいのと違うのです。ただ、正しい意見に対して、「それは違うと思う」と言っても処罰されない保障を求めている、それだけです。

 教師も生徒も、全員が同じ正しさを信じていて(信じることを強いられていて)、異論の余地が許されていない学校は、知的な生産性という点から言うと、最低の場所になるでしょう。そういう学校から、多様な個性や可能性を備えた若者たちが次々と輩出してくるということは決してないと僕は思います。というのは、知的な生産性というのは「正しい/間違っている」という二項対立とは別のレベルの出来事だからです。(pp.10-12)

 

わかってしまうとコミュニケーションは終わる

 誤解している人が多いと思いますけれど、「わかった」というのはあまりコミュニケーションの場において望ましい展開ではないんです。だって、そうでしょ。親とか先生から、「お前が言いたいことはよくわかった」ときっぱり言われると、ちょっと傷つくでしょ。だって、それは「だからもう黙れ」という意味だから。

 ふつう人を好きになったときに、相手から一番聴きたい言葉は何ですか?「あなたのことを完全に理解した」ですか。まさかね。そんなこと言われてうれしいわけがない。だって、それは「だから、あなたにはもう会う必要がない。あなたの話を聴く必要もない」ということを含意しているわけですから。

 人を好きになったおき、その人の口から僕たちが一番聴きたい言葉は、「あなたのことをもっと知りたい」でしょ。誰が考えたって、そうですよ。

 でも、「あなたのことをもっと知りたい」というのは、言い換えれば「あなたのことが現時点ではよくわからない」ということです。よくわからないからもっと知りたい。ちょっとだけわかったけれど、まだまだわからないところが多い。だから、「もっと知りたい」と思う。

 そういうものなんです。この機会に覚えておいてください。「わかった」というのはあまりいいことじゃないんです。人間同士では、「わかると、コミュニケーションが終わる」ということになっている。本を読んで、中身が全部理解できた。そしたら、その本のタイトルも著者名も、書いてあったことも、何もかも全部忘れても、困らない。だって、全部理解できたんですから。その本には僕たちが「もともと知っていたこと」が書いてあったか、読んでいるうちに「血肉となったこと」が書いてあったか、いずれにせよ改めて記憶する必要もないし、手元に置いておく必要もない。そのままゴミ箱に捨てても困らない。

 読者に「全部理解された」おかげで、二度とタイトルも著者名さえも思い出されないような本を書きたい人はいないと思います。少なくとも僕は書きたくありません。僕は「あなたの話は全部理解できました」なんて言って欲しくない。僕が聴きたいのは「なんだかわかったような、わからなかったような……」です。それは聞いた人の身体の中に言葉が収まったけれど、まだうまく片づかないで宙吊りになっているということだからです。「わかったこと」のファイルにも「わからなかったこと」のファイルにも分類されていないで、そのままデスクトップの上に置きっぱなしになっている。それこそ、僕たちが人に言葉を差し出したときに受けとることのできる最高の歓待です。そう思っている人がどれくらいいるかわかりませんが、僕はそう信じています。(pp.37-39)