「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

「他者」ってわからない。2020.12.8哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

1.はじめに

「他者を理解すること」、「相手の立場に立って考えること」―これは教育の根幹にある教えの一つと言っても過言ではないでしょう。実際私たちは家庭でも学校でも「人の気持ち」を慮ることを明に暗に求めています。しかしながら、そもそも「他者」を理解することは本当に可能なのでしょうか。

「他者」とは、もちろん基本的には自分ではない(身体的に一致していない)人間のことです。けれどもこれだけでは定義として十分ではありません。何故ならば、もし仮に「私」の隣に人型をした物体(実際に人間でも構いません)がいたとして、彼/彼女の気持ちを「私」が余すところなく理解し(感覚の共有)、動きを制御できるとしたら(身体の支配)、その物体は私にとって他者なのでしょうか。むしろ、彼/彼女は「私」の延長になってしまいます。つまり逆説的になりますが、他者とは理解できない、思いのままにコントロールできない存在なのです。

他者と気持ちを共有できる歓びは、やっぱりあると思いたい。にも拘わらず、「他者のことを理解できる(はずなのに)」と思って他者と向き合うのと、「他者のことを理解し尽くすことはできない」と思って他者と向き合うのでは、眼前に拓かれる世界は異なるのではないでしょうか。

2.鷲田清一 『じぶん…この不思議な存在』より

(略)レインがあげているもう一つの挿話をみてみたい。

学校から駆け出してくる幼い男の子を、母親が腕を広げて待っているという場面である。レインはこの出会いかたに4つのタイプがあるという。

 

1 彼は母親に駆け寄り、彼女にしっかりと抱きつく。彼女は彼を抱き返していう。〈お前はお母ちゃんが好き?〉そして彼は彼女をもう一度抱きしめる。

2 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらくが、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。〈そう、いいわ、おうちへ帰りましょう〉。

3 彼は学校を駆け出す。お母さんは彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて立っている。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼はいう〈うん〉。彼女は彼に平手打ちを一発くわせていう〈生意気いうんじゃないよ〉。

4 彼は学校を駆け出す。母親は彼を抱きしめようと腕をひらく。が、彼は少し離れて近寄らない。彼女はいう〈お前はお母さんが好きでないの?〉。彼は言う〈うん〉。彼女はいう〈だけどお母さんはお前がお母さんのこと好きなんだってこと、わかっているわ〉。そして彼をしっかり抱きしめる。

講談社現代新書p.p.114-116

3.「他者との共存」

哲学者の内田樹先生が『AERA』巻頭エッセイ「eyes」で、アメリカの大統領選挙に関するコメントに続くかたちで、政治学者オルテガの言葉を引用し「他者との共存」について次のように述べています。

 

 国民が利害や思想の異なるいくつかの党派に分断するのは仕方がない。しかし、それでも公人たる者は、自分の支持者だけでなく、自分の反対者をも含めて国民全体の奉仕者であるという「建前」だけは意地でも手離してはならない。

 オルテガ・イ・ガセットは「野蛮」を「分解への傾向」のことと定義した。「文明はなによりもまず、共同生活への意志である」(『大衆の反逆』、寺田和夫訳)

 人々が「たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる」さまのことをオルテガは「野蛮」と呼んだ。それに対して、「文明」とは「敵とともに生き、反対者とともに統治する」ことだと高らかに宣言した。

 むろん、容易には実現し難い理想である。けれども、この理想をめざすことを止めた後、私たちはいったい何を目標にして生きてゆけばよいのか。

 国民国家というのは「利害を共にする人々から成る政治単位」という政治的擬制である。たしかに擬制ではあるが、この定義を放棄したら国民国家は維持できない。当面国民国家という政治単位以外に使えるものを持たない以上、私たちは「できるだけ多くの国民の利害が一致する」ようなシステムの構築をめざさなければならない。

 文明的であるというのは「敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意」を宣言することである。理解も共感もしがたい不愉快な隣人との共生に耐えるということである。だから、文明的であることは少しも愉快でないし、効率的でもない。そういうのは嫌だという人たちは理解と共感に基づいた同質的な小集団に分裂してゆくだろう。だが、繰り返すが、オルテガはそれを「野蛮」と呼んだのである。

                                  『AERA』2020年10月12日号

 

ここでの「敵」とは、自分の理解も共感も超える「他者」として置き換えることが可能です。私たちはいくら自分とは異なる考えをもっているとしても「強い敵」の存在は認めざるを(共存せざる)をえない。それに対して「弱い敵」に対しては、しようと思えば(例えば数の論理で)その存在を無効化することもできる。にもかかわらず、その声に耳を聳(そばだ)て存在を認める。これが「弱い敵との共存」です。私たちは声の小さな人たちに耳を傾けているのか否か(あるいは、常にアンテナを張りその微かな周波数を捉えようとしているのか否か)―この態度こそが「文明的」であることへの試金石と言えるのではないでしょうか。

4.竹内敏晴 『子どものからだとことば』より

 これについて思い出すのはある定時制学校の教師のことです。一人の、自閉症と言われていた大柄な青年がいて、友達にいびられたか、ひどく荒れたことがある。他人のカバンもバリバリ破り、靴を引き裂き、止める友だちを投げとばし、暴れまわった。教師が体当たりで引き止めて、話をしたそうです。そういうことをしちゃいかんことは知ってるだろ、我慢できん時はちゃんと話しに来い、というようなことを話しかけたのだが、青年は上を向いたり横を向いたり、一向にまともに答えてこない。根負けした教師が、一瞬、やっぱりこいつはちっと頭が弱いからなあと、フッと思ったそうです。とたん、いきなりかれのワイシャツが引き裂かれていた。あれは凄い教えだった、とかれはつくづくと語りました。

 人と人とが出会うとはどういうことなのだろうかということを、私はここ数年考え続けています。立っている次元が違っていたら、人は絶対に出会うことはない。それに苦しみ傷つくのは、いつも深い方の次元にいる人であって、浅い次元の人は、人間として触れ合えていないことにさえ気づかず、のんきに、たとえばしゃべりつづけている。それが少しずつ見えて来ています。他者と同じ次元に立つために、人はどれだけのものを、たとえば常識とか思惑とか、その他さまざまを捨てなければならないか。それも少しずつ学んできたように思います。ずい分大ざっぱな呼び方ですが、こういう意味での「次元」とは、心理学で言えば、どのような問題として把えるのか、教えていただきたいというのが私の願いなのです。

                                 晶文社 pp.109-110

【このテーマをどう読み解くのか?】

「他者」とは、例えば自分の子どもだったり、夫だったり、会社の人だったり、友人だったり・・・。

理解したいと思いそれぞれが努力しているけど、すべてを理解することはできない。

自分のことをわかってほしいと願うのにわかってもらえない空しさも経験したことは誰でもあるんじゃないだろうか。

他者との関わり方・・・

他者とは・・・

他者について深く考えてみるのも良いのではないだろうかと思う。

見えなかった自分なりの答えが見つかるかもしれない。