「私がいること」「あなたがいること」―「今ここに在る」ことの不思議2020.11.10哲学カフェのテーマ

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

  • はじめに

 少し専門的な話になりますが…、哲学では伝統的に「存在(在ること)」には二様のタイプがあるとされています。「私が…である」こと、そして「私がある」こと。(前者は「そのものの内実」が示されているので「本質存在」、後者は「そのものが現実に存在している」ことが示されているので「現実存在(実存)」と言われます。)私たちは社会的な役割や属性をうることで、数多の「…である」ことができます。「母親である」ことができたり、「教員である」ことができたり…ですね。実際私たちは、自分たちが「何である」かということに眼差しを向けがちです。自分自身の内実をできるだけ価値のあるものにしたい、というのは自然な感情でしょう。子どもたちを育てていくうえでも、その内実をなるべく豊かにしてあげたいと思うのも自然な感情だと思われます。それに対して、私たちは「私がいる(在る)」ことや「あなたがいる(在る)」ことは、あまりにも当然で当たり前に過ぎるので、日常的に考えたりすることはあまりないのではないでしょうか。

そもそも「私が…である」ことができるためには、「私がいる」こと(=現実に存在していること)が前提として必要となります。「私がいる」ことは「私が…である」ことよりも、より根源的な出来事なのです。根源的でありながらも日常的にはあまり思考することのない「私がいること」「あなたがいること」について、その不思議さに触れてみましょう。

2.「ありのままに在ること」の歓び

―アーノルド・ローベル「ひとりきり」より

(前略)

「でも がまくん。」と、かえるくんは いいました。

「ぼくは うれしいんだよ。 とても うれしいんだ。

けさ めをさますと おひさまが てっていて、いい きもちだった。

じぶんが 1ぴきの かえるだ ということが、いい きもちだった。

そして きみという ともだちが いてね、それを おもって いい きもちだった。

それで 一人きりに なりたかったんだよ。

なんで なにもかも みんな こんなに すばらしいのか

 その ことを かんがえてみたかったんだよ。」

「ああ そうだったのか。」と、がまくんは いいました。

「それなら やっぱり ひとりきりになりたいよ。」

「でも、」と、かえるくんが いいました。

「いまは きみが いてくれて うれしいよ。 さあ ごはんを たべよう。」

ふたりは ごごの あいだ ずっと しまで すごしました。

アイス・ティーなしで、 ぬれた サンドイッチを たべました。

ふたりきりで すわっている かえるくんと がまくんは、 しんゆうでした。

アーノルド・ローベル「ひとりきり」p.62-64

(『ふたりは きょうも』所収 三木卓訳 文化出版局 ミセスこどもの本)

3.「存在しない」のではなく、「存在している」ということ

―古東哲明『〈在る〉ことの不思議』より

存在の虚無性とは、神羅万象が〈在ること〉に、なにか必然的な存在理由も、しかるべき起源や目的も、原理的に欠けているということである。それはいいかえれば、〈在る〉とはつねに、「在る必然性などさらさらないのに在る」ということであり、「無くても論理的には少しもふしぎではないのに在るということである。つまり、非在こそ論理的にはむしろオリジナル、無くてあたりまえで自明で必然ですらある、にもかかわらず、現に人は生きて在り、のみならず万物が在る、ということである。

 非在こそ当然であるという論理的必然性。にもかかわらず、現になにかが〈在る〉という存在のまぎれもない事実性。この論理と事実とがつきあわされるとき、なにかが〈在り〉、この世が〈在る〉ということは、極度に「非-自明」で「稀-有」なできごとだという思いが、静かに炙りだされてこないだろうか。極度に非自明で稀有なことを、神秘的あるいは不思議(mystériux)と形容することはゆるされよう。ならば、なにかが存在するということは、たったそれだけのことで無条件に、神秘的な出来事にほかなるまい。しかも万物はいずれ非在化することを加味してみれば、在ることの不思議(存在神秘)の思いは、いっそう募るはずである。

 もしそうであれば、存在の虚無性あるいは儚さとは、存在神秘の逆証であり、その別名にほかならぬことになろう。虚無で儚い生起であればこそ、存在は神秘である。(後略)

『〈在る〉ことの不思議』古東哲明 勁草書房 pp.3-4

4.「それは信じられぬほど すばらしいこと」

「あかんぼがいる」 谷川俊太郎

いつもの新年と どこかちがうと思ったら

今年はあかんぼがいる

あかんぼがあくびする

びっくりする

あかんぼがしゃっくりする

ほとほと感心する

あかんぼは 私の子の子だから

よく考えてみると孫である

つまり私は祖父というものである

祖父というものは

もっと立派なものかと思っていたが

そうではないとわかった

あかんぼがあらぬ方を見て 眉をしかめる

へどもどする

何か落ち度があったのではないか

私に限らず おとなの世界は落ち度だらけである

ときどきあかんぼが笑ってくれると

安心する

ようし見てろ

おれだって立派なよぼよぼじいさんになってみせるぞ

あかんぼよ

お前さんは何になるのか

妖女になるのか貞女になるのか

それとも烈女になるのか天女になるのか

どれも今は はやらない

だがお前もいつかは ばあさんになる

それは信じられぬほど すばらしいこと

うそだと思ったら

ずうっと生きてってごらん

うろたえたり居直ったり

げらげら笑ったりめそめそ泣いたり

ぼんやりしたりしゃかりきになったり

【このテーマをどう読み解くのか?】

わが子が自分にとってどんな存在?

生まれた時はどんな気持ちだったかな?

母としての自分が今ココにいるということ・・・そしてわが子が今いるということ

当たり前だから、平凡な日常の中では考えないことが多いけど、あたらめて考えてみると気づきもあるのではないでしょうか。

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