「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」2020.10.13哲学カフェのテーマ   

森のようちえんみきゃんっ子内で毎月第2火曜日に開催してる哲学カフェの内容を掲載しています。今回のテーマは「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」です。

※この原稿は松山短期大学非常勤講師の山本希さんが作成したものです。

【はじめに】

 「大きくなったら何になりたいか」と、大人は子どもに問いかけます。(幼いころは「妖精」だったり「動物」だったりする子どもの答えは、成長に伴い「ケーキ屋さん」「幼稚園の先生」「パイロット」などとより現実的なものになっていきます。)

この問いには、2つの暗黙の了解が潜んでいます。

「大きくなったら、今の自分とは異なる何かにならなければならない」ということ。そして、「『今』という時は『将来』のための準備期間である(将来のために努力しなければならない)」ということ。

私たちはこの問いに繰り返し触れてきているので、そこに潜んでいる了解に対しても違和感を感じることはほとんどありません。実際に叶うかどうかは別にして、将来何かにならなきゃいけないし、そのための努力も(理想的には)怠らないほうがよいのだと。だけど本当にそうでしょうか。私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問う―それが哲学です。

 私たちの(そしていわゆる「資本主義社会」の)当たり前とは異なる価値観を形成する民族に関する文章に触れることで、改めて自分たちの「常識」に光を当てることができたらな…と思います。

 

1.アマゾン ピダハン族-『ピダハン「言語本能」を超える文化と世界観』

 

(略)10代の破天荒さは万国共通のようだ。

けれどもピダハンの若者が引きこもっているのは見たことがない。いつまでもふて寝をしたり、自分のとった行動の責任から逃げようとしたり、親の世代とは全然違った生き方を模索したりということもない。ピダハンの若者は現にとても働き者で、生産的な部分ではじつによくピダハンの社会に順応している(優れた漁師であったり、村全体の安全を守ったり、食べ物を調達するなど、社会全体の生存に寄与している)。ピダハンの若者からは、青春の苦悩も憂鬱も不安もうかがえない。彼らは答えを探しているようには見えない。答えはもうあるのだ。新たな疑問を投げかけられることもほとんどない。

 もちろんこのように安定してしまっていると、創造性と個性という、西洋においては重要な意味をもつふたつの大切な要素は停滞しがちだ。文化が変容し、進化していくことを大切に考えるのなら、このような生き方はまねできない。なぜなら文化の進化には対立や葛藤、そして難題を乗り越えていこうとする精神が不可欠だからだ。しかしもし自分の人生を脅かすものが(知るかぎりにおいては)何もなくて、自分の属する社会の人々がみんな満足しているのなら、変化を望む必要があるだろうか。これ以上、どこをどうよくすればいいのか。しかも外の世界から来る人たちが全員、自分たちより神経をとがらせ、人生に満足していない様子だとすれば。伝道師としてピダハンの社会を訪れていた最初のころ、わたしが村に来た理由を知っているか、ピダハンに尋ねてみたことがある。「お前がここに来たのは、ここが美しい土地だからだ。水はきれいで、うまいものがある。ピダハンはいい人間だ」当時もいまも、これがピダハンの考え方だ。人生は素晴らしい。ひとりひとりが自分で自分の始末をつけられるように育てられ、それによって、人生に満足している人たちの社会ができあがっている。この考え方に異を唱えるのは容易ではない。(ダニエル・L・エヴェレット 屋代通子訳 みすず書房 pp.142-143)

 作者である伝道師のエヴェレットは、言語習得(聖書翻訳)とキリスト教伝道のためにピダハンのもとで30年もの期間を過ごします。そして、結局のところピダハンを神の教えへと導くことができずに(キリスト教的な価値観においては、現世よりも死後(天国)が重視されます。これは現世に満足しているピダハンとは相容れないでしょう)、それどころか彼自身がピダハンに魅せられ棄教へと至ることとなるのです。

 

2 マレーシア プナン族-『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

 

狩猟民族のプナンの日常は、まさに「生きるために食べる」だけで構成されています。「彼らは、森の中に食べ物を探すことに一日のほとんどを費やす。食べ物を手に入れたら調理して食べて、あとはぶらぶらと過ごしている。彼らにとって、食べ物を手に入れること以上に重要なことは他にない」(奥野克巳 亜紀書房p.16)。

プナンでは獲物は神経質までに均等に配分されます。彼らにとっては個人所有という概念はなく、あるものは総て「みんなのもの」です。だからこそ、誰かの所有物を受け取ることはないので「ありがとう」とお礼を言うこともありません。そして食料といった物質のみならず、目的(プナンにおいては「生きるために食べる」こと)といった抽象的な事柄も、彼らは共有しています。それ故に(日本ならば明らかに個人に原因が帰せられるような)失敗が生じた場合にも、特定の個人の責任を負わせることにはなりません。「ごめんなさい」という謝罪が発せられることも、謝罪が求められることもないのです。著者は、反省をすることない(悪いと思うこともなさそうに思える)プナンの姿に、当初は居心地の悪さを感じます。しかし次第に、「なぜ反省しないのか」という問い自体がおかしいのかもしれないと思うようになるのです。「実は、私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか、反省をするようになったのかと自らに問わなければならないのかもしれない」(p.50)と。反省をして「よりよき未来の到来のために今生きる」という私たち現在人の在り方に対して、プナンではシンプルに「今を生きる」だけなのです。そこには「反省」の入り込む余地はありません。プナンには自殺や鬱などの精神疾患が(少なくとも著者の見聞の限りにおいては)ないそうです。

 

3. アマゾン ヤノマミ族-『ヤノマミ』

 

〈ボリバ、ボリバ、ボリバ〉

三回であれば三か月後か三か月前のはずだった。ただ、僕たちには、それが過去のことを言っているのか、未来のことを言っているのか、最後まで分からなかった。

彼らの言葉を訳してみると、今日の狩りから、数年前に死んだ両親の話、そして天地創造の神々の話までが、時制を自由に行ったり来たりしながら語られていた。今日の獲物の話をしたすぐ後で、大地や川や生き物を創造した神についての話が続き、次に自分が子どもの時の思い出話といった具合に、何の脈絡もなく時間軸が移り変わるのだ。彼らは昨日のことを一万年前のように話し、太古の伝説を昨日の出来事のように語った。(国分拓 NHK出版 p.31)

 

 私たちにとっての「一万年前」は、言うまでもなく「遥か昔の時代」であり、通常「自分自身を形成する時」とリンクして考えることはしません。「私たちの時」はどんなに長く見積もっても、計測可能な100年程でしょう。それに対して、ヤノマミの人たちは自分たちの時が、ほとんど「悠久の時」に等しい。私たちにとっては、自分の命の有無(存在しているか、存在していないか)が「私の時」を限界づけています。ヤノマミにとっては、自分の存在の有無を超えて「自分の時」があります。

 「悠久の時」がほとんど「自分の時」と重なる、そんな時間概念に生きることは、私たちとどれほど異なることでしょう。どうして「私たちの時」はこれほどまでに限定されているのか、と更なる問いを立てることができるかもしれません。

【このテーマをどう読み解くのか?】

「大きくなったら何になりたい?」-「大きくなったら何かにならなきゃいけない?」というテーマについて当日は自由に考え、自由に討論してもらいます。

哲学は最初に書いてあるように私たちにとって当たり前の前提を疑い、改めて問うことから始まります。

答えはありません。ぜひみんなで話し合う中で子育てのヒントをそれぞれが見つけてくださいね!